私たちは、いろいろな人格が備わっています。
「人のお役に立ちたい私」
「自分さえ良ければよしと思う私」
「しんどいことを避けて楽したい私」
「目の前のことを面倒くさいと思う私」
数え切れない程の人格がいて、私という自分が構成されています。
私たちは、この数多く存在する人格にジャッジメントを加えていきます。
例えば、「人のお役に立ちたい私」はOK
「自分さえ良ければよしと思い私」はNO
という具合に。
自分の中の人格の中でOKとした私だけが私と思う、いや、思いたいのです。
それは、理性からのジャッジメント。
その中には、その人が活きていくうえで培った思い込みや観念も含まれます。
この場合の理性は、その人における正しさです。
その人の正しさという観点だけで物事をジャッジメントしていきます。
すると、どうなるか?
自分自身の正しさという観点で人を見ます。
自分自身の正しさに当てはまるものは正しい。
当てはまらにものは間違い。
こうして、自分の正しさを人に押し付けていきます。
あるいは、口に出さないが相手を否定していきます。
私たちは、こういうことも教えられてきました。
物事を主観的ではなく客観的に見るようにと。
自分の正しさだけで判断するということは主観的。
理性とは、本来、人に迷惑をかけない。
あるいは、人のためにお役に立つという想いです。
しかし、理性だけで判断してしまうと主観的になるという
ことは、本来の理性に反して人を不愉快にするのです。
この矛盾はどこから来るのか?
話しを元に戻すと、
私たちは、様々な人格を備えていると冒頭で書きました。
その様々な人格にジャッジメントを加え、良い自分、悪い自分
としてしまいます。
どうも、この辺に問題の本質がありそうですね。
その辺りは、また次回にて。