ある旧交を温める会席な どでは、かつて知った仲間という事もあり、居ながらにして意思疎通に漂う微妙な陰影を感じることがある。人間本来の感性が野生動物の臭覚のように、漂う雰囲気の事柄を察知するのである。良くも悪しくも自分事に対しては、鋭敏なアンテナを備えているのが人の常である。感性の度合いが、神格化された霊視から駄馬のような愚鈍無感覚の無反応に至るまで、遠い過去から死生を繰り返して今日まで、DNAのなかに取り込まれて来た運命の蓄積の濃淡にあるとして、それが現世に引き継がれているとする仏教の因果法則の帰結からすれば、人間そのものを規定し、内面の姿を固形化している。六道輪廻に沈む我らの醜い姿こそ、鏡の奥に潜む本当の姿なのだ。拙作「心象風景」にも載せているが、五百年前の戦国時代の事件が、遠く離れた現在の人間関係に影響を及ぼして対立関係を再現した事など、過去の行為が運命となって後世に現われる現象は、元はと云えば因果に基づく種蒔きと結実の関係なのであって、縁のとりもちさえあれば、いつでも何処でも起こり得ることなのである。ある男がある家庭を滅ぼそうとして、相手の力の弱い女子供を狙ってヤクザな手を使い、電話口から不特定者としての悪口毒言を浴びせる手合いなど、六道輪廻の世界では平然と行われている。このような下劣な関係に染まっている限り、双方とも地獄界のクビキから逃れることができない。染まらないことが、そこから抜け出る道である。