日本津々浦々北上しながら咲き誇る満開の桜に出会った。今年もまた花の精の漲る力に思いを込めて、日本人に生まれた幸せを思う。花のみなぎる力はどこから来るのだろうか。平安期から鎌倉期にかけての武人たちは、動乱期を迎えても刹那の彼岸にある絢爛化生の境地を心の糧にして、花と散る誉れを飾った。現代の我々も何分の一かはその遺伝子を受け継いでいるから、旺盛な満開の放つ気韻に心が浮き立ってしまう。既に花は匂いとともに消え去って、見えない花の精は何処かに染みこんだまま、次の地へと移ろいゆく。これもまた無常の世の常である。
人体の機能も年とともに老化して体のあちこちが軋んでくる。眼はかすみ、耳は難聴の度合いが増して、補聴器のお世話にならなければコミュニケーションもままならない。脚は何とか歩行には差し障りもないが、長い距離には無理がある。そうした老化によって生の限界がある以上、新たな生命の誕生を繰り返しつつ、連綿と継承されていく前提で「葉っぱのフレディ」みたいに、この世から去ることを納得する。人間の一生が桜のような気韻を伴うかは別問題だが、西行法師のように桜に帰化したような思い入れさえ、難行だと思う。ウクライナもパレスチナも人の命が軽く扱われている。指導者自身は砲弾に身を曝すことも、野晒しの寝床に横たわることもない。桜に寄せて肩の荷を軽くしたい思いであったけれど、ますます肩の凝る文になってしまった。
人体の機能も年とともに老化して体のあちこちが軋んでくる。眼はかすみ、耳は難聴の度合いが増して、補聴器のお世話にならなければコミュニケーションもままならない。脚は何とか歩行には差し障りもないが、長い距離には無理がある。そうした老化によって生の限界がある以上、新たな生命の誕生を繰り返しつつ、連綿と継承されていく前提で「葉っぱのフレディ」みたいに、この世から去ることを納得する。人間の一生が桜のような気韻を伴うかは別問題だが、西行法師のように桜に帰化したような思い入れさえ、難行だと思う。ウクライナもパレスチナも人の命が軽く扱われている。指導者自身は砲弾に身を曝すことも、野晒しの寝床に横たわることもない。桜に寄せて肩の荷を軽くしたい思いであったけれど、ますます肩の凝る文になってしまった。