フレディ・マーキュリーも、オスカー・ワイルドも、もう生きていない。
私はもちろん生きているけど、
この文章が読まれているとき、私はもうここにはいない。
別のことに熱中していたり、誰かと話していたり、
お風呂に入っていたり、トイレに行っていたりして、
もしかしたらここに書いた考えとは、
別の考えを持つようになっているかもしれない。
その意味では、この文章というのは、死んだ私の語るものなのかもしれないと思う。
小学校か、中学校にあがりたてくらいの時、
あなたの好きなものについて書いてみてください、と一枚の紙を渡されて、
何も書けなくて、鉛筆を持ったまま、呆然としていたことがある。
そんな様子を見て、心配した先生が、どうしたの、と声をかけてくれた。
好きなものは、変わっていってしまうから、
今、どんなに好きでも、ずっと好きなわけではないと思うし、
今まで好きだったものも、今はそれほどでもないように思うと、
一体何を書いていいのかわからない、というような内容を言ったと思う。
そうしたら、先生はすこし呆れたような顔をして、
とにかく、今、好きと思うものについて書けばいいのよ、と言った。
なにか、ちょっと、考えすぎる子供だったのかな、と振り返って思う。
今もあまり変われていないように思うけれど。
これが読まれている時の「今」は、これを書いている時の「今」とは違う。
でも、この文章の中の死んだ私は、いつまでも、「今」と言う。
我ながら、考えすぎて、ちょっとややこしくなっているな、と呆れてしまう。
「死人に口なし」という言葉があるけれど、
死んでもなお語ろうとする人間がいると思う。
時代を経て、語ることがあまりに時代の偏見に満ちているようで、
がっかりすることもあるけれど、
死んでもなお「今」に向かって語ろうとする言葉が、
今生きている人間の言葉よりも、
私や今ある状況を理解してくれていると思う時があって、
それは不思議な感覚だな、と思う。
彼らはこの時代のことなどきっと想像も及ばなくて、
私という人間に語ろうとすら思っていなかっただろうに、
なぜか彼らの言葉が私の心をかすめていく感覚。
死んでもなお、拭い去り難く影響を残していくことと
生きていても、虚しいくらい届かない無力さがあること。
生きているや死んでいるって、なんなのだろう、とときどき思う。