まもなく3年を迎える。
始めの1年は、迷うことが多かった。イニシアティブをとることに必死な人達と向き合あおうと
努力もしてみた。けれども、そもそもそういうことに興味がない自分ができるわけがなく、近づかないことにした。
私はそうやって生きてきたし、今のところ、そうやって生きてきた結果悲惨な結果になったことはない。
もしかしたら、申し越し経済的なメリットを享受できたのかもしれないけれども、きっと私はそうするためにストレスを抱え、そのストレスを発散するためにコストをかけ、体力も時間も消耗し、虚しさだけが残ったことだろう。
幸い、高価なものを持つことが生きがいではないし、この3年間、若者が「身の丈に沿った物を持つ」見本を見せてもらえているので不安を感じることはない。
イニシアティブをとることに必死な人ほど、実は無理しているように思う。本当にイニシアティブをとれる人は、いつも通りにしていることが結果としてイニシアティブになっている。一方で、必死な人は単に承認欲求が強いだけ。私の周囲でそういう人は過度な学歴社会を刷り込まれた結果、「そうしなければいけない」と思い込んでいるように見える。まるで軍国主義の日本のように、本当は生きたいのに「お国のために・・・・」と必死に周囲を巻き込もうとするように。
もちろん、「論語とそろばん」的考えは必要。つまり、「正直(論語)だけでなく、欲(そろばん)」を両立させないと資本主義経済では現実的な生活は成り立たない。
イニシアティブをとれないのにとろうとする人はそこら中にいる。たちが悪い人もいる。私なりに「結局、一番合理的」だと思っているのは、「なるべく近づかない」ことだ。
「なるべく」というところが意外と大事。完全無視だと、こちらにもリスクが発生する。承認欲求が強い彼らはそういうところに敏感なので、無視させないようなイニシアティブを発揮しようとする。それもまた迷惑だ。なので、「最低限の反応はする」。一方で能動的な対応は一切しない。
イニシアティブをとれなくのにとろうとする人も「そうしなければいけない」としてやっているので、必死なのだ。だからことたちが悪いし、やめることもない。やめるということは、これまでの人生を否定することになるんだから、やめるわけない。
それはお互いさまでもある。
だから、なるべく近づかない。