上方の噺家さんが「師匠は”オモロイ奴になるよりも、嫌な奴になるな”と言ってはった」と話していた。それが私には沁みた。それは、京都の大企業家である京セラ創業者が言っていた「利他」とつながると思う。その師匠も無駄な説明をそぎ落としたうえで到達したまさに俳人としての極みを示されはったように思う。経済成長は無視できない、「衣食足りて礼節を知る」と言うくらいだ。ただし、地球上の万物が「動的平衡」で成り立っている以上、「成長は永遠には続かない」節目を迎えているように思う。デジタルコンテンツが成長する一方で、アナログ、つまり、対面コンテンツは決して廃れない。ただし、「選択と集中」は起こっているように思う。NHKの海外ドラマなどを見ていると「対面コンテンツの価値」を誘導したストーリー傾向があるように思う。デジタル社会の中で精神を病んだ人間は対面で「利他」に触れることで回復の道筋を見つけてゆく。
ある推理ドラマでは、大半が理詰めで緻密に伏線を張っておいて最後に「オチ」を付ける、いわゆる「起承転結」ストーリーを散々出力していたが、最終回では「孤独が人を悲劇にする。人間社会にはつながりが必要だ」ど締めくくった。コロナ騒動前に作られた作品である。また、ある医療系ドラマでは頭脳明晰なドクターが知恵を出しあって患者を救って行く。しかし、病の原因は先天性というよりは、生育環境や社会環境によるものだ。それは、一昔前は「気やまい」とか「ノイローゼ」とか「分裂症」などと言われてきたが、過度な社会環境に対する「動的平衡化」を担った人々は、過度な社会環境にとっては都合悪いため「病気」「犯罪者」扱いして異質化していたのかもしれない。
「異質=嫌な奴」ではないと思う。自己の不安感が強いという意味では共通する部分もあるが、「不安感のアウトプットの仕方」が違うように思う。私の周りの嫌な奴らは、自己の不安感を他者に投影しながら、その行為を正当化しようとするやつらだ。
そのレベルが上がれば上がるほど、私にとっては「気色わるい」対象になる。たち悪いことに他者へ投影するための必須アイテムは「対面」なので、対面コンテンツ環境によく出没する。
奴らが本当に欲しているものは「安心感を感じられる対面環境」なのだろう。ただ、奴らにとっての「安心感」は「多くの人にとって不安」な状況になる場合が多い。
そういうのを日々感じているからなのだろう。「師匠の言葉」が沁みたのは。