「その人」の声はもう何度も聞いている。映像は若いころのだけしか見られていない。もう21年前に亡くなりはった。

私が自分の現実と向き合う作業をしていた真っ最中だ。抑うつ状態で、仕事があったおかげでなんとか外見はマトモに見えていたころだ。

 

その人の「最後の高座」の声を聴いた。悲壮感はなく、最後まで「自分ができること」をやり遂げた人だと思わされる、高座を通じて毛穴からにじみ出る意志を感じとれた。今、私はその人より年齢を重ねられている。私なりに時間を重ねたことで、その人の思いを受け止められるようになったのかもしれない。

 

共感できているんだとしたら、安心や。だあれもその人ことを悪く言うのを聞かない。その人は「長く生きる」よりも「太く生きる」ことを選びはった。正解はないやろ。あるとしたら「自分ができるのはどっちや」ということを自分で考えて、選択できた方なんやと思う。

 

私は「道草」が多い。時間がかかる。ただ、「向き合って」いると、時間が解決してくれているように思う。それが私のペースやんな。

 

その人が亡くなりはった時、その人に「後継」していた、あの人は、それはそれは大きな喪失感やったと思う。「なんか、悪いことしたんか」と思ったやろう。その現実と向き合うために仕事があったことが、あの人にとっての救いやったように思う。

 

そういうことを考えられるようになってよかったわ。

抑うつ状態の時間があったからこそだと思う。そして、その状態でも仕事をしていられたこと。職場で回りの人達が受け入れてくれたことに感謝せなあかんな。