この歳になって、アウトプットの多い日が続いた。仕事として給料をもらえるだけありがたいことだと思うが、やっている最中はやはりストレスはあった。「精神的動的平衡」を保とうとする本能からか、アウトプットするとスカスカになる脳みそにはインプットが必要なようだ。

「理論的で公序良俗に適したアウトプット」、いわゆる「●●すべきこと」を求められた分、「じゃない方」、「●●したいこと」を身体は求めてる。それが私には上方落語のようだ。とは言っても、これまた私の場合、先に「見た目」が来る。これは今に始まったことではない。今私の噺家の選択基準は「見た目」と「節回し」と「声質」のように自分では思っている。いずれにしても「芸」ではなく自分の好みの基準が先にくる。これは今更どうにもならない😅。そして「長続きしない」。これもどうにもならない。仕事を転職せずに30年以上続けられたのは、幸いにも「異動」があったから。そして「毎日同じことをする事務系」ではなかったから。だと思っている。

今回、選んでしまった噺家は上方落語をしている。落語会はいまだに5千円程度でLIVEで聴きに行けることもあるかと思うが、彼と出会ってから半年で3回会場に行っている。私の癖で「その人の言動」が優先される。私が得られる限りの情報で彼を見ている限りでは「三つ子の魂百まで」の典型的な人。周囲の洗脳に沿った言動をしている。そして、ちゃんとその洗脳に抵抗して「じゃない方」を生きている。その人の2世代前までを見ると「べきこと優先」→「やりたいこと優先」→「べきこと優先」とちゃんと平均に落ち着くようになっている。その人は、「べきこと」を優先してきただけに長いあいだ抑圧されて来たのではないかと思う。でも、「そうやって生きてきた魂は100まで引きずるだろう。ただ、それは決して不幸なことではない。やるべきことを優先している人に、世間は「立派な人」とか「慕われる人」という言い方をする。「やりたいこと優先」の人生の方が幸せかというとそうでもない。「破天荒な人」とか「変わった人」と言われることもある。つまり、社会的にある程度義務を果たしてあとは自分が居心地よければいいのではないかと思う。その人は私がのめりこんでいるいるほど、世の中的には芸では評価されていないようだ。確かに、同じネタをほかの人で聴くと「ああ、声質が残念」とか「なり切れていない」と上から目線だが感じられるところがある。声質は努力ではどうにもならない。「なり切れていない」のも、その人の場合「洗脳された人生なんだから、自我がないのはどうにもならない」ように思う。私自身も、自我形成がうまくできなかったので共感できる。深層心理には「自分はできない」という根深い自己否定感がある。だから「言われた通りにやらなくてはいけない」みたいなある種の脅迫観念が優先されて自分で考えることができなくなる。これは、本人の生まれながらの気質も多少は関係あるのかもしれないが、私個人的には「周囲の大人の投影による影響」だとも思っている。私の場合は、周囲の大人の不安感情を投影され、その投影された不安感情にこたえることを優先した結果、「言われたことをする」人になった。

その「言われたことをする」ことが正義だと洗脳され、年齢を重ねても「他者も言われたことをするべき」となり、他者を強要した結果、信頼を失ったこともある。

その人も相当な洗脳環境で時間をすごしたのではないだろうか。年齢を重ね、「べきこと」の優先順位が低くなってきた最近、残りの時間までの間「足りなかったものを埋める」ことをしているように思う。そして、私自身もその傾向があるからだろう、共感したいと思ってしまうのかもしれない。

まあ、そもそも私の「あきっぽさ」がどこまで持つのか?それとのその人があの世に逝くのがさきか。そんなことはわからしまへんが、「喜イさん」のような人が受け入れられるような社会環境になってくるまでに実は明治維新から150年以上かったはるとうことでしょうな。