「何でそこまでこだわったやろ。」と少し不思議に思っていた。

そらあ、好きやったのかも知れんけど、それにしてもよく、そこまで極めはったなあと。

 

そういう人らは「存在価値を確かめいといけない理由を抱えていた」のかも知れん。その度合いが強い人ほど何かを極めな、精神的に生きていかれへんのかったように思う。その理由は人によって違う、その極め度合いも人によって違う。その人が持っている生物学的特徴、それは、内臓の強さ度合いやったり、脳みその使い方やったり、さらには周囲の環境もあるやろな。それの掛け算によって、ある人は人間国宝になる。ある人は病人扱いされる、ある人は犯罪者扱いされる。どれも「極めはった」結果やな。

 

最近、「あの人はなぜ人間国宝まで行きはったのやろかいな」と思ったいた。あの人の場合は、健康体であった、戦争で生き残ってしまった、ある程度の経済力はあった、教育環境は良好だったことの結果だったのだろう。「極めはった」のはあの人の場合には「生き残ってしまった価値」を確認する必要があったのだと思う。「生き残れた」のではなく「残ってしまった」ということへの罪悪感を払拭する必要があったんちゃうかな。

 

強い思いを抱たはる人の家族は、今度は「極めるために失ったもの」を取り戻そうとするやろ。そら、「動的平衡」の仕組みから言って、当たり前のことや。世間は冷やかすやろけど、どこも、おなじやで。音量が大きいか小さいだけのちがいや。だから、自分と同じ人なんているわけなしやな。「家族は一つ」なんて気色悪いだけや。

「たまに共感できる」のが当たり前やねんから、それでええやん。

そうしようや。