人生を、自分自身が舵をとって進もうとするすべての人のことをリーダーと言ってます。
<今日のあらすじ>
武士を大事にしたことで強固な御恩と奉公の関係(封建制度)が出来上がりました。そんな中、大陸で乗りに乗りまくって超強かった元軍の襲来が起こります。
今日もまず北条氏の家系図を出しておきましょう。
5代執権、北条時頼は、泰時にも増して武士を大事にした人でした。彼も、武士なくして幕府なし、という考え方の持ち主で、武士の負担を軽減したり、裁判の無駄(長引く、取調べが不十分)を少しでも軽減させていこうと尽力した人でした。
その結果、ますます武士は幕府を、幕府は武士を頼りにし、御恩と奉公システムはより強化されました。これは、封建制度という、他の国でもよく見られたことですが、なんていうのかな、日本においては、それは契約っていうことじゃなさそうです。一所懸命という言葉ができたのも、おそらく契約という概念ではなかったから、忠誠を誓うということでもなく、ただ、奉仕するということだったのだろうと思います。
今、現代の日本企業にも御恩と奉公システムの考え方が根付いています。特に大企業では特に、そして昔ながらの由緒ある企業ほどこのような考え方が残っています。武士の台頭とともに広がったこの「御恩を厚く、奉公は一所懸命に」、現代に至るまで残っている仕組みであり、この土地のマインドセットでもあります。他国で生まれた同じ封建制度と言っても、少し違う感じの、日本独特の雰囲気が含まれるということも、リーダー、どうかお忘れなく。
その、5代目執権北条時頼が1252年に、ついに、念願だった天皇の子供(皇子)を将軍に迎えるということに成功しました。
源実朝のあと、一度は断られた皇族から将軍をもらうというのは、このときについに実現し、幕府がそれだけ力を増していたことを物語っています。
蒙古に氣をつけよ、と言い残し、亡くなります。
そんな、元から、降伏せよ!という国書が届きます。まずは1266年、フビライ=ハンは日本に国書を届けようとしますが海が荒れて渡れずに失敗します。その後も幕府へ何度も国書を送ったり、日本人をとらえてフビライ=ハンのもとに連れて行ったり交渉を重ねていましたが、日本は返事を出さずにいました。
そして1273年、ついにしびれを切らしたフビライ=ハンは日本征服計画を立て始めました。
一方日本はというと。
北条時宗が14歳で北条家をまとめる立場につき、その後18歳で執権となります。もうこの元の残虐な噂は日本にまでしっかり届いており、1268年に国書が届いた際には、「国交を結べば属国、断れば襲われる」という状況でした。ちなみに属国というのはお隣高麗を見ればどんな扱いだったかよくわかります。
フビライ=ハンの使者として来ていたのはいずれも高麗の人々で、日本が返事を出さなければ自分たちが怒られ、また日本が国交を断れば、戦=通り道である先端の高麗が人や食料、物資を提供することになり、高麗にとってはどちらも自国に大変都合が悪かったのでした。これはもう属国というか、ただのコマ・・・![]()
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で、元からの文書を見て、オロオロしてましたオロオロ(゚ロ゚;))((;゚ロ゚)オロオロ
実は、このとき日本の政治はかなり安定していて、それが、自信に繋がっていました。また、折しも武士社会が急成長しているとき。日本の武士が蒙古に負けるわけがないと思っていました。そうはいいつつ、西国の守備を厚くしたり準備を整えていました。
ついに、蒙古襲来の時がやって来ます。1274年、文永の役。初めて、日本が外国の人たちと戦うことになりました。初めてです。初めて。初めてということはつまり。みなさんご経験あると思いますがつまり、「井の中の蛙」を知るということでした。
つづく

