人生を、自分自身が舵をとって進もうとするすべての人のことをリーダーと言ってます。
<今日のあらすじ>
源氏が滅び、源頼朝の妻、北条政子が立ち上がります。幕府と朝廷の間に、本格的な対立ができてきて、徐々に溝が深まりました。
さて、そんな、三代目源実朝は残念ながら、二代目源頼家の子、公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいます。公暁ものちに処刑されます。
そして、ここで。源氏が滅びます。
よく思ったのは北条家です
これで、邪魔な源氏(しかも正当な血筋)がいなくなりました。公暁の一件も、もしかしたら北条家の仕組んだことではないかと言われています。
実朝を心底大切にしていた北条政子はさすがに悲しみます。実朝には子がなく、源氏は跡継ぎがなってしまいました。そこで、摂関藤原家から、2歳の藤原頼経が差し出されます。北条政子はその後見人として、政治を執り行うようになりました。
↑北条政子。頼朝の死後出家して尼となり、四代目藤原頼経の時に尼将軍となる。
たった2歳の藤原頼経を将軍に迎える前、北条氏、つまり幕府側は後鳥羽院の子供(皇子)を将軍に迎えたいと申し出たのですが、断られてしまいました。そしてまた後鳥羽院、つまり朝廷側からのお願いもだんだん受け付けなくなって、幕府と朝廷との間にゆっくりと、けれど確実に亀裂が入って行きました![]()
よそから四代目の将軍をもらってきたこと、最近の目立ちぶり、朝廷(というか自分)に対する非協力的な態度などなど、、怒った後鳥羽院はついに討幕挙兵します。1221年のこと。もともと、頼朝の考え方としては朝廷ありきの幕府という立ち位置でしたが、このときにはもうそのような関係は保たれていなかった。
幕府側はあわあわ(ノ)゚Д゚(ヽ
そして政子は立ち上がります。御家人衆を前に、「あんたらは鎌倉殿の御恩をお忘れか」「昔みたいにまた貴族の言いなりの生活に戻っていいのか」と演説し、御家人の心をつかみ、一つにしてゆきました。
1221年の戦い(承久の乱)はあっさりと幕府が勝利し、幕府はこれを皮切りに西国の支配を強めていきました。朝廷に味方した武士は少なかったと言います。古くからの権威である朝廷に対し、幕府は実際に所領を与えてくれます。こんなところから、幕府を支持する武士が多くなりました。
この頃には、幕府で政治を担うのは執権と呼ばれる北条氏が一括して行いました。
1224年、承久の乱を指揮した二代目の執権北条義時は亡くなり、翌年、政子も亡くなります。
三代目、北条泰時は立派な人でした。小さな頃から叔母の政子に武士と幕府について教えられてきましたから、ことさら、幕府を維持するためには武士の力が必要だと考えて、御家人である武士たちを熱く大切にしたのでした。
御成敗式目を作ります。1232年。
御成敗式目(ごせいばいしきもく)は公正な裁判のための基準として作られました。
今までも律令というものがありました。ずっと前、藤原京のころ、天武天皇の時代に作られたものが、歴代の朝廷によって手を加えられながらちゃんと残されてきた。が、田舎の人たちのところまではその内容が届いていなかった。
それをきちんと田舎の方まで知らしめようとして作られたのです。何も知らない田舎の武士たちが、裁判で負けてしまうことが多かったからです。
つまりこの御成敗式目は武士のために作られたのです。
今まで律令というのは朝廷が管理してきました。そこに、武士用に作った律令がこの御成敗式目=武士には武士の論理が必要=朝廷に対する武士の主張なわけです。
ご参考までに、北条泰時が弟にあてた手紙を載せておきます。
↑泰時が弟に送った手紙の内容。貴族に対して氣を遣っていることがわかる。同時に、武士には武士の法律が必要なのだ、という意思も強くあらわれている。
こうしてまた、朝廷と幕府という二項の構造がよりはっきりと明確になったのでした。
続く




