<今日のあらすじ>
東南アジアの歴史がなぜこのタイミングからなのかと植民地についての考察、この地での宗教の広がりについて書いています。
さて、ようやく、東南アジアの歴史が描けるまで来ました。
なぜ東南アジアの歴史が中世になってようやく出てくるのかというと、それまでこの地の人たちが歴史を記録するという文化がなかったからです。今でも、東南アジアの第二次大戦前の歴史は植民地化した国がつけていたものしかなく、東南アジアの目線は書かれていないのです。だから、今日書くところも国名くらいはわかるけどその内情はよくわかりません。
ちょっと、中断。
少し話をそれて植民地について書きますね。
植民地化されるということは、制圧者、統治者がいるわけですが、脱植民地に至ることが「良かったねー、終わったねー」ではないことを知っていてください。それはわたしたち『歴史を見る人の視点』であることをよく覚えていてください。
手元にある本に書いていることを交えながら書きますね、
現地では制圧者、統治者に無条件に服従されるよう、長年にわたる調教を受ける。社会的、政治的、経済的、宗教的機関ですら、意図的に骨抜きにされ、支配され、やがて国も時の与党が新たに社会を管理するための機関にことごとく乗っ取られてきた。
国民は往々にして孤立した個人の集合に変えられ、自由を勝ち取ろうと活動したりお互いを信頼したり自分たちの主導で何かを成すことさえできなくなってしまう。その結果、国民は弱体化し、自信を失い、抵抗ができず、家族や友人にさえ自由への渇望やを分かち合うことも次第に恐れるようになる。
つまり、独裁、植民地化というのは、その国の人から国を奪うのではなく、自分たちの手で国を作る力を奪ってきたということ。
リーダー、自分の魂は何かに植民地化されていないか、振り返ってみてくださいね。
このパターンは、わたしは、この戦後日本にも当てはまると思ってます。学校教育にも、会社という枠組みの中でも、上のことと同じことがこの日本で今でもまだ十分に起きていると思っています。それに氣づいているひとが極端に少ない、ということもまた、書いておきます。
中断終わり。
東南アジアとしてどんな歴史をたどってきたかというのは、なかなか語るのが難しいのです。なので、教科書もこの中世の頃から取り上げるようになっています。
ベトナム北部は当時は唐の一部でした。南にチャンパーという国ができたのが2世紀末。そこから、15世紀ほどこの国は続きます。
そして、カンボジアは12世紀ごろに有名なアンコールワットが建てられます。
↑アンコールワット。もともとはヒンドゥー教の神さまの化身と言われた王をお祀りするための神殿でしたが、のちに仏教の寺院となりました。
諸島部も島を超えた統一が起こりました。海上交易が盛んで、南インドからかなりたくさんの影響を受けています。宗教もその一つで、この土地には最初仏教やヒンドゥー教がもたらされています。が、すべてがすべてインドの真似っこだったわけではないのです。
東南アジアにはカースト制度がありませんね。ですから、当時の人たちもちゃんと、南アジアから真似る・学ぶものと、そうではないものを判断していました。
宗教に関しては次第に、イスラム教スンニ派が広がります。
よく考えれば、これは同じ島国の日本との違いが見られるところですね
日本は唐を完全に真似っこしてました。もし唐にカースト制のような上下階級があったら当然日本にもあったでしょう。宗教に関しては、同じですね。こちらはイスラム教、日本には仏教。それぞれが土地の文化と融合しながら、独自の宗教観が出来上がる。日本では仏教が色々な宗派に分かれますよね。
この違いは一体なんだ???
なんかここ、ありそうなんだよな
そして面白いのは、やっぱり海を超えたところからもたらされる文化を取り入れるってことです。日本は、海を越えたところが唐でした。東南アジアは唐と接してますが、影響を受けたのは南インドだったのですね。
インラケッチ