<今日のあらすじ>
中国唐の滅亡と、周辺諸国の状況。
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さて、今日からまた東アジアにもどりましたよブログカテゴリを中世にしました。
前回、唐の話でした。玄宗と楊貴妃の長恨歌の話でしたね。7月7日長生殿でね。で、何かむくむくとこう、書きたくなっちゃうんだけど、抑えて、抑えて抑えてー、
先へ。
唐には日本からも遣唐使が行ったり、唐からもこちらへお坊さんとかがきてくれていたけれど、唐が滅亡する10数年前に遣唐使やめます。どういう経緯でやめることになったのか、よく知らないですが、ちょっと興味が湧いちゃいますね。で、この後日本は日本らしさの追求に走ってゆくことになります(国風文化=雅の発展)。
↑中国の唐の時代の史料。各地から貢ぎ物を持ってやって来る。
左から高句麗人、日本(倭)人、新羅人。教科書には、日本が一番格好が粗末だって書いてある。見えない方がいいところにちょっと布巻きつけただけだからな。。。
そして。
618年に始まった唐は、907年、滅亡します。それから100年くらいは五代十国時代という、5回の王朝交代、10くらいの国が滅亡を繰り返すような時代になります。
でね、唐の間の約300年の間、周辺諸国はどうなっていたかというところを書いておきます。少しずつ強力な国が出来てきて、内陸を含めて東アジアというものが形成されてきます。ちょっと、題名を「中国」とかにしているのに周辺諸国について書くってどうよ?と思ったのですが、、、
下の地図をご覧くださいね、663年、日本の歴史のところで書きましたが白村江の戦いがありました。地図にも「白村江」という地名が載ってます。で、
この、高句麗の下のところに「渤海」っていう字がありますでしょ、ぼっかいと読みます。中国の東北地方の名前。それから、チベットはこのとき吐蕃(とばん)という国(薄紫)。それからウイグルと書いてあるところですが、玄宗が楊貴妃に夢中になって政治を省みなくなった時に、乱が起きるのですが、そのとき鎮圧を手助けしたのがこのウイグル。が、それをいいことに、今度は唐を追い詰めるようになります。
↑日本と、大陸の内陸との繋がりはこんな感じでした。基本的に船だからもちろんナンパしたり色々あったと思いますが、唐を通さずに内陸とも直接ちゃんと繋がっていたっていうのはすごいことです。
下の地図の赤いところが唐時代の最大領域。唐は618年にできたから、50年後に最盛期を迎えてたんだね。
南はベトナムの方まで影響があった、唐。この国を中心とした国際社会が出て上がっていた中での、907年の唐の滅亡。唐が滅亡するということは、それら周辺諸国の多くに影響が及んだということです。
わたしはどちらかというと、この最大領域を迎えてからの約250年の間、人々がどのように唐を維持してきたのかというところがすごく気になるけど、これはまた別の機会に調べてみようっと。
その後、朝鮮半島は「高麗(こうらい)」が統一、ベトナムは唐から独立、上の方の地図のオレンジ色南詔(なんしょう)は大理という国なります。
続く。
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このーわたしーしあわせものー