五分後の世界/村上 龍
オレはジョギングしていたんだ、と小田桐は意識を失う前のことを思った。だが、今は硝煙の漂うぬかるんだ道を進行していた…。
五分のずれで現れたもうひとつの日本は、人口二十六万人に激減し地下に建国されていた。
駐留する連合国軍相手にゲリラ戦を続ける日本国軍兵士たち。
戦闘国家の壮絶な聖戦を描き、著者自ら最高傑作と語る衝撃の長編小説。
村上龍の小説を初めて読んだのは希望の国のエクソダスだった。
当時10代だった小生にとって緻密に構成された設定や物語の背景は理解の範疇を超えていたが、その斬新さと現在日本が抱える問題点を鮮烈な文体で書き下ろしている様はまさに衝撃だった。
少し間が空いて上記した背表紙のあらすじを読んで興味が沸き購入、同氏の小説を読破するきっかきになる。
希望の国のエクソダスを越す衝撃だった。
ポツダム宣言を受諾しなかったパラレルワールドの日本が舞台で、広島、長崎に次いで小倉、新潟、舞鶴に原子爆弾が投下される。
旧日本軍は本土決戦を決行、極端な物資不足で人口は激減し本土はソ連、アメリカ、中国、イギリスに上陸•分割統治され、大日本帝国は消滅した。
ビルマ、ニューギニアへ遠征していた将校団が帰国、長野の地下に司令部を建設する。
以降50年、連合国軍を相手にゲリラ戦を展開している日本国に磁場のずれから起こる空間の歪みに主人公の小田桐は飲まれ、前線に巻き込まれることで物語は始まる。
戦闘後、地下司令部へと案内された小田桐は司令官と女性将校のマツザワと三人で会話をするシーンがあるが、その内容があまりにも衝撃的だったので一部抜粋する。
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「君がここに来るまでいた世界では、日本はもう戦っていない訳だな?」
そうです、小田桐は簡単に説明した。
「それでは、沖縄戦と、ソ連の参戦と広島、長崎の原爆投下までは同じなのですね?」
マツザワ少尉がそう言って、小田桐がうなずくと、彼女はじゃシミュレーションの八番ということか、と呟いた。
「そうだ、シミュレーションの八番だ、われわれは、日本が中国に利権を求めて派兵しなかった場合から始めて、九州を占領されてポツダム宣言を受け入れるという仮定までそれぞれシミュレーションを済ませている、入力した情報量はワンシミュレーションにつき約百万項目だから、不確定要素レシオは十七、八パーセントほどのモデルパターンなんだが、君を見ているとやはりシミュレーションはシミュレーションだということだな、予測とは違う」
どういうことですか?と小田桐は聞いた。答えてくれたのはマツザワ少尉だった。
「沖縄を犠牲にして無条件降伏した場合は、最終的にアメリカの価値観の奴隷状態になるという予測が出ました、経済的な発展のレベルは何段階かありますが、結果は基本的には同じことで、つまりアメリカ人が持つある理想的な生活の様式を取り入れて、そのこと自体を異常だと気付かないということ、文化的な危機感は限りなくゼロに近づいていくので、例えば日本人だけが持つ精神性の良い部分を、アメリカが理解せざるを得ないような形にして発信するという可能性はなくなります、そうですね、アメリカでとてももてはやされている生活のスタイルが日本でももてはやされる、それに近い状況になるということでしたね、政治的にはアメリカの顔色をうかがってアメリカの望むような政策をとるしかなくなる、外交面では特にその傾向が強くて、日本の政治力、政治的影響は国際的にゼロかもしくはマイナスになります、マイナスという意味は、日本の外交能力のなさ、外交政策決定力のなさが国際的なトラブルの原因になるということもあり得るということです、具体的に言うと、アメリカ人が着ている服を着たがる、アメリカ人の好きな音楽を聞きたがる、アメリカ人が見たがる映画を見たがる、アメリカ人が好きなスポーツをしたがる、ものすごく極端に言えば、ラジオからは英語が流れて、街の看板もアルファベットばかりになり、人々は金色や赤に髪を染めて、意味も分からないのにアメリカの歌に合わせて踊る、というところでしょうか。そしてそれが異常なことだと気付くことができないくらいの奴隷状態に陥る、それにしてもあなたを見てると、やはりシミュレーションにすぎないということがよくわかります、あなたは髪を金色に染めたりしていません」
マツザワ少尉がそう言って小田桐に笑いかけた。いや本当は今あなたが言った通りなんです、と小田桐は言おうとして、止めた。
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このやりとりを読み終わって小生は眩暈をおぼえた。
自分の中に存在するある種の常識のようなものが根こそぎ引っくり返された様な気がした。
奴隷、という言葉が今になっても重くのしかかっている。
戦後日本に入り込んできたアメリカ文化を絶対的に否定することが出来ないのは、おそらく物心ついたときにはすでにそうだったからだ。
疑問を抱く余地さえ与えられなかった。
どう捉えるかは個人の問題だ。
他者の思想を鵜呑みにして盲信するほど怖いものはない。
そこに自我や個性は無く、ナルシシズムと排他的思想しか生まれないからだ。
ただ、異物として入り込んできたものは異様であればあるほどそれは免疫に変わり、また視野を広げることに繋がる。
小生は日本が好きで日本人であることに誇りを持っているが、アメリカ人が嫌いな訳ではないし国のために死ねるかと問われればおそらく出来ないと答えるだろう。
それにしても、的確に突かれた日本人の愛国心のなさに不甲斐なさを感じられずには居られなかった。
どちらが幸せなのかは、小生には分からない。
二十六万人にまで数を減らしてでもプライドや誇りを守り、世界に名を馳せる戦闘国家として生まれ変わるのか、文化を捨てて仮初の安定を手に入れるのか。
ひとつ間違いないのは、僕は生まれてこのかた何一つ不自由なく生きてこれたし、これからもおそらくそうだということだ。
それ以下でも、それ以上でもない。
もののあるべき姿とは、一体誰が決めるのだろう。
価値観とはどのようにして生まれるのだろう。
身の周りが既製概念で固められていたとしても、一度全てを疑って然るべき在り方を見つめ直すことは、人間には必要なのかも知れないと、この一冊を読んでそう感じた。
秋、と一言に言っても人それぞれに違った定義があるだろう。
正確な期間が定められていない限り季節というものは曖昧であり、
ある日不意に変わるのではなく景色はグラデーションして変わっていく。
最初に言っておこう。
小生、秋が苦手だ。
原因として歴代付き合ってきた女の子に大体秋にフラれてきた、ということがひとつ挙げられるが、
よーく考え直してみると最たるは高校生時代の記憶に遡る。
一言で言えば、人格形成が思うようにいかなかったのだ。
異なる環境で育った同い年の少年少女が数百人入学し、知り合いはほぼ皆無、ここらでひとつ地味で目立たなかった中学時代の自分を廃して友達に囲まれあわよくば女の子にも囲まれるようなイケイケの学生生活を送りたいなどと淡い期待(と下心)を持ち入学した。
俗にいう、高校デビューってやつだ。イタイ。
結果から述べれば、出だしさえ良かったものの八方美人が過ぎて徐々にボロが見え始め、当時流行ったネットいじめという掲示板で誹謗中傷される陰湿な行為の被害に軽く遭い(中には擁護してくれた奴も居た)、その後は卒業まである程度大人しく生活する、という結局あまり冴えることなく、また人に話すネタになるほど悲惨なものでもなかった。
大学進学を控えひとつの人生の分岐点になるであろう17歳の時、小生は音楽を知ることになる。
人生最大の汚点で、人生最大の幸福でもある。
それまで割と上層部に位置していた成績は坂を転げ落ちるように悪化。
二年次に進学クラスから特進クラスとかいう比較的成績の良い生徒が集まる教室に入るも、皮肉にもそれらの教室を分けるテストは音楽を始める前に実施されたのだ。
ひとつ熱中すると他の事物に全く興味を示さなくなる小生の困った特性はここでも発揮された。
もう我が人生に音楽しかありえない!!!と確信したのだ。愚かすぎる。
ただ、幸か不幸か現在まで音楽活動を続けているのも事実である。
当時の判断はあながち間違っていなかったのかも知れない。
まぁそれまでの経緯はともかく、当時やりたいことが他に何もなくなてしまったロックスターを夢見る17歳は専門学校への進学を希望することになる。
両親をはじめとした周囲の反応はひどいものだった。
それはそうだろう。息子がある日突然優等生から夢見がちなバンドマンになってしまったのだ。
特進クラスという有名大学への入学を目的とした教室内で専門学校への入学を希望するのはただ一人であった。
担任には一過性のものだろうとか、音楽なんて趣味で出来るじゃないかとか、挙句の果てにお前みたいなのがいると他の生徒の士気に関わるだとか滅茶苦茶な事を言われたりした。
親は大学に行かないなら学費は出さないし、家からも出て行けという。
ひたすらに、無力だった。
金も力も何も無かった。あの時初めて己の無力さを痛感したように思う。
環境と衝突し、積み上げていたアイデンティティは音を立てて崩れ、日々消耗していた。
外見でそれを判断出来る友人は唯の一人も居なかった。
明るく気丈に振舞い、お調子者としてのキャラクターを通した。
二年次の秋を迎えるころ、消耗はピークを迎えた。
毎日のように両親と揉め、怒鳴り合い、自我の行方を求めて深夜まで何をするでもなく虚空を見つめ、そのせいで睡眠不足が募り登校しても終始現実から目を逸らすように寝ていたし、何より気力がなかった。
最終的に担任や親が小生の熱意に圧され進学を許してくれるまでには長い道のりがあった。
いまでこそあのときの日々の葛藤で自分が試されていたのだとも考えられるが、当時そんな冷静な判断が出来る筈も無く、悲観的になり、塞ぎ込み、安直に環境を恨んだ。
総じて言えば高校生活はそう悪いものではなかった。人並みに楽しんだし、友人も多かった。
しかし夏の終わりの冷たくも暖かくも無いあの外気に触れると、未だに当時の憂鬱を思い出す。
というより、体が覚えている。刻み込まれている。
いまではわだかまりも取り巻く呪縛も無く、好きなように生きている。
人格形成を確立させるまでのあの自意識の怪物のような生活の最中で、ようやく自我を掴んだのだ。
あれから約5年経ち、夕暮れの澄んだ赤紫の空に見とれ、秋刀魚が美味いなぁなどと思えるようになった。
とても好きとは言い難いが、あの時よりかは秋を受け容れられる。
以前に比べれば大きな進歩ではないか。
今後一切この季節の中で女性に振られることがないように祈り、小生は今日も秋と過去の青い葛藤をつまみにビールを啜る。
一見、アニメ尽くしの内容と怪訝されそうなブログタイトルだが、小生はあまりアニメを観ない。
唯一何度も観て細部にわたり理解を深めたのはエヴァンゲリオンくらいだ。
はあ、エヴァオタですか、と言われたとき、フィギュアとか持ってたりするんですか、と聞かれる機会が多い。
全く失礼な話だ!と心中で憤慨しつつ、いいえそういう趣味はないですねと愛想笑いで答える。
それが好きだからグッズやフィギュアを持っているだろうと推測するのは安直すぎる。
そういった副産物よりもストーリーの世界観やバックボーンにそそられる。もっと知りたいと思う。
大事なのはそこなのだ。登場人物がいかに可愛いか、萌えるか、ではない。
但し綾波レイは別である。
小生の中の二次元の比率を最も大きく占めているのは恐らく本だろう。
本棚がひとつ丸々埋まるくらい大量の書物があり、休日は歴史書から始まり近代医学の参考書まで幅広くひたすら読書に没頭する、というのは嘘だが、
高校生のときは教師の目を盗んで小説ばかり読んでいた。
それまでは小学校の読書感想文でハリーポッターを読む程度だったが、
当時、乙一の作品に出会うことで読書生活が始まる。
小説っておもしれー!と思ったのである。
ひとつを知ると狂ったようにその穴を深く掘り続けるのは小生の大きなエネルギー源であると同時に困った部分でもある。
とにかく彼の作品を読み漁り、一通り揃えてからは田口ランディを読破、石田衣良、伊坂幸太郎その他数人の作品を読み続け、
最近は村上龍の本ばかり読んでいる。
ページを開いた瞬間の現実逃避感、そこには活字しかないはずなのに物語の奥深くへといざなわれるあの感覚は全く以って中毒性が強い。
そして、ひとつの物語が終わった時、長い間余韻に浸りに深く恍惚してしまう。
主人公の心情を思い描いてみたり、話のその後を耽ってしまったりする。
そして、戻って来た三次元に絶望するのである。
考えてみれば至極当然のことだ。
物語の内容がどうあれ、音楽にしろ映画にしろ創造物は作者の世界観の中で創り上げられる。
他人の世界に入り込むのだ。
その違和が自分の持ち得ない感性と反応を起こし、様々な感情に変容する。
それはつまり、自分の中に無かった何かを吸収するということ。
その過程で拒絶反応を示せばそれは「キライ」と認識され、逆に共鳴する一部があれば「スキ」と認識される。
これほど人間の感性を成長させ、鋭くさせるものはない。
また、これほど小生を悲しませたり、歓喜させたり、絶望させ、またあるときは泣かせるものもない。
因ってこちら側へ帰ってきたときの反動を顧みず、誰かの世界に潜り続ける。
二次元とは、僕にとってそんな存在だ。
ゼロからの創造。制限も拘束もない。自由だ。
だから二次元は理想であり、三次元は否応も無く現実なのだ。
