映画監督・西河克己著「伊豆の踊子物語」を読んで思う。最高の踊子役は百恵。 | con-satoのブログ

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 映画監督・西河克己が書いた「伊豆の踊子物語」という本。6回映画化された川端康成の代表作。そのうち吉永小百合版と山口百恵版を監督した西河が、すべての映画化にまつわる諸事を書いた本。


 吉永小百合版の時は川端はまだ存命なので、西河も吉永小百合も川端に会っている。この本は自分の映画化した作品だけでなく、第1作の田中絹代版から時系列で作品が並んでいる。

 田中絹代版は昭和8年(1933年)サイレントで監督は五所平之助。名作といわれる1作目。川端康成は大層この映画を気に入っていたそう。しかし、実はこの時点では原作の知名度はイマイチ。監督の五所がどうしてもと松竹を説得して映画化にこぎつけたそう。それゆえにタイトルも「恋の花咲く港・伊豆の踊子」になっている。サイレント映画になったのも予算が厳しかったから。

 しかし、2作目の美空ひばり版が作られた以降は、新人女優の登竜門的作品になる。3作目鰐淵晴子、4作目吉永小百合、5作目内藤洋子、そして6作目が山口百恵。これが最後の映画化で製作されたのは昭和49年(1974年)。

 つまりは昭和の時代でしか映像化に向かない作品だったのだ。今の女優が演じれば、どこかが嘘くさく感じられるだろう。74年百恵版以降は製作されていない

 監督・西河にすれば、この百恵版は15年ぶりの映画監督作品。気合いが入ったのだろう。しかし、製作条件は厳しくて、撮影期間は20日、さらに主役の百恵の稼働は7日間という本編映画としては考えられないスケジュールと予算。

 それほど、百恵に映画女優として期待薄だった。しかし、自作のリメイクで吉永版の反省もあり(吉永小百合は西河の脚色は気に入らなかった)ベテランの見事な仕事ぶり。出来上がった作品を観た東宝が急遽お正月映画に格上げ。予想以上にヒットを記録して、百恵は東宝映画の看板女優になった。

 当時、百恵ファンだったので(元旦に日比谷にあった東宝の封切館「千代田劇場」で)リアルタイムに映画を観ている。

 監督についは、まったく知らず、誰なのだろう?と思っていた。しかし、のちに資料を見ると西河は日活製作復活に要の監督だった。しかも、川島雄三などの才人を古巣の松竹から引き抜き、多くの人材を新生日活に揃えたスタジオの大物だった。

 しかし、日活の一般映画撤退後は本編の声がかからずにいた。この監督を呼び込んだのはホリプロの小田専務だっただと思う。(杉良太郎の育ての親でもあった人で日活人脈もあるホリプロの重鎮)

 どちらにせよ、百恵版の「伊豆の踊子」は百恵の代表作になった。今見ても百恵の踊子は儚げで、かつ、ちょっとした、いかがわしさもある切ない踊子だった。この踊子は6人の中で最高の踊子だったと思う。