con-satoのブログ

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映画を中心にエンタメ、旅などを紹介しています。

 先週の「虎に翼」。LGBTネタが満載だった。先週から登場した、弁護士・轟の同性のパートナー。しかし、あの時代にそんなことを他人に公表する人などいたのだろうか。ごく内輪の同じ趣味の人ならまだしも、いくら友人とはいえ、カミングアウトはないと感じた。

 このドラマ、男女の格差など、人権問題を扱いたいという意欲はわかる。でも、やりすぎというか、昭和20年代という時代を無視した話の展開が目立つ。

 ドラマは令和6年に作っているので、今の目線が入ることは仕方ないけど、1950年代の話を2020年代の価値観で語るのには無理がある。

 今週、大きく扱われたLGBT問題。あの時代に赤の他人に同性のパートナーを「お付き合いしている」と紹介する人なんていないだろう。まして、女装で、性転換している人なんて、いるわけないと思う。同性愛なんて、影の存在で、絶対に人には見せないが基本なのではないか。(福島次郎が書いた三島由紀夫の本を読むと、昭和30年代のようすがわかる。まして、ドラマはまだ20年代なのだ。)

 性転換手術と聞いて、思い浮かべるのはカルーセル麻紀。それはかなりの衝撃的なスキャンダルだった。あれも1970年代の話。モロッコまで出かけ、大変な手術だったと手記を読んだ記憶がある。だから、中村中が演じた人のような性転換者など存在しなかったはず。(外国へ簡単に行ける時代でもないのだ)

 今の価値観で語っているといえば、夫婦別姓問題も同様。今でも結論の出ている話ではない。(国会で論議中)まして、昭和20年代にあんな話をする必要があるのか?

 少し前の新潟編でも地元の有力者の娘が東大に進学したというエピソードもあった。東京の女子でも、あの時代に東京大学に進学するのは稀な存在だろう。優秀な女子が行くなら「お茶の水」「津田塾」。よほどの理由がなければ、東大にはいかないだろう。まして、地方から上京して、下宿して通うなんて、常識的ではない。

 このドラマ、後半は描きたい事柄が優先で、その時代には、あり得なさそうな事柄を、無理やり今の時代感覚で押し込めている。大きく話を展開する一方で話の進め方は強引。前半はあんなに良かったのに、後半になって、随分、雑な展開。それに、まだ原爆裁判が残っている。

 

 デンマーク映画「ぼくの家族と祖国の戦争」で描かれるのは第2次世界大戦末期のデンマーク。ナチの統治下に置かれているデンマークにドイツから難民が押し寄せる。ナチの軍人たちはデンマークはナチの決定に従えと難民を押しつける。その数25万人。

 舞台になるのは市民大学という学校。予想を上まわる数の難民が押し寄せる。想定外の数の戸惑う受け入れ側。ナチに抗議しても「お前たちで対処しろ」とつれない。さらに疫病が発生。それを助けるのか、見過ごすかでデンマークの住人たちの心が揺れる。

「ぼくの家族と祖国の戦争」★★★★★

 今も世界では戦争、紛争が絶えない。もちろん争いなどないのが理想。でも、そうはいかないのが現実。その厳しさが描かれる。

 デンマーク人はナチのことを忌々しく思っている。それは祖国を踏み躙られたのだから当然。まして、戦争末期なので、レジスタンス運動も盛ん。

 そんな中の難民受け入れ。住民は誰も受け入れなど望んでいない。しかし、疫病で死んでゆくのはドイツ人でも人間なのだ。それに手を差し伸べれば、ナチの協力者との烙印を押される。その葛藤が描かれる。

 主人公一家は、つい手を出してしまう。それがナチへの協力だと激しく非難される。どちらも正義なんだろう。だから難しい。

 今の戦争、紛争も、日本の報道を見ると、人道主義を旗印にすれば、全て正しいように伝えられる。

 でも、世の中なんて白黒で成り立っていない。映画は、この一家が主人公なので、かれらをヒロイックに描いている。では反対の立場の人たちを、一方的に非難すべきなのか?そんな簡単なものではない。複雑な気持ちで劇場を出た。

 でも観るべき映画であることは間違いない。

 渡哲也の自伝「流れゆくままに」を読んだ。全編を通じて石原裕次郎に捧げた人生だということ、その意味が良くわかった。平凡な人生を送っているとないものだけど、渡哲也は「出会って」しまったのだ。

 生まれた時から映画スターになるまで、それからと、年代を追って語られる渡哲也の人生。石原裕次郎を失い、弟の渡瀬恒彦を失って、初めて自身の人生を振り返って、語ろうという気持ちになったそう。

 それにしても、この人、真面目な人だなと思う。真面目を通りこしてこちこちの生真面目ぶり。

 面白いな思ったのは松田優作に言われた言葉。石原プロに忠誠を尽くすあまり、渡が自分のやりたい仕事より、プロダクションの仕事を優先しているように見えた松田優作。渡に「石原プロ辞めた方がいいんじゃないですか」と言ったそうだ。

 実はそれは渡自身が感じていたこと。俳優として、もっと違うタイプのがしたい。それにオファーも来る。しかし、石原プロの財政を考えると「西部警察」を優先せざるを得ない。

 優作はそれを見かねて渡に進言したということも渡にもわかっていた。しかし、そんな思いを裕次郎に相談することはなかったという。もし、相談すれば「お前の好きにしろ」というに決まっているから。

 しかし、それで石原プロがガタガタしてしまうのは、渡の思いではない。結局、俳優としての野心を捨て、石原プロ、石原裕次郎に殉じていく。その考えが裕次郎がなくなったら「殉死」したいと思うところまで行きついた。

 ひとりの人間として、そのまで人に殉じることなど稀なことだろう。出会ってしまったことが、幸福なのか、そうではないのかは紙一重。本人の価値観次第だろう。しかし、この自伝を読んでいると渡には後悔はない。タイトルのあるように「流れるまま」に生きることが自分の信条なのだ。それには共感した。

 運命を自分の意志で切り開く人もいる。でも、自分は運命の流れに従って生きてゆく。それはそれで意志がない生き方ではない。それを冷静に見ている。

 何事も自己中心になりがちなスターという人種。そのなかでは変わった異種の人なのだろうと感じた。そして、それが渡哲也の俳優としての魅力に繋がっている。

 

 アメリカの人気キャラクター「ガーフィールド」の映画化作品「ねこのガーフィールド」。アメリカではさすがの認知度で大ヒット。日本では夏休み公開。

 父親に捨てられたガーフィールドは飼い主になったくれた気の優しい青年に拾われて。


「ねこのガーフィールド」★☆☆☆☆

 オリジナル版のガーフィールドの声は「ジュラシック・ワールド」などの人気俳優クリス・プラット。

 でも、日本の吹替は山崎亮太。彼が吹替していることを知らないで観た。登場して最初のセリフを聞いただけで、彼が吹替しているのだとわかった。特徴的な声、それに下手な声の演技。ああ、観なければ良かったと瞬間に思った。それは最後まで続いた。

 映画は「ミッション・インポッシブル」のパロディになっていたり、なかなか見せ所がある作り。ガーフィールドの可愛くないキャラもいい。

 でも、やっぱり吹替がつらい。どうして、こんなヘボなキャスティングをするのだろうか。

 日本語吹替が嫌いなわけではない。「アナ雪」のような完璧なキャストティングもある。それに日本には声優もたくさんいる。それなのに、なんで山崎亮太?一番ダメなやつでしょう。

 まだ動員が期待できるアイドルなら(演技のできる人なら)わかる。でも、どれほどの人が山崎亮太が声のキャストだからといって観るのか。ほぼゼロではないか?

 お笑いが全部ダメとはいわないけど、彼の場合、芝居ができていない。

 奥さんの蒼井優さん。旦那さんにこんな依頼が来たらと聴いたら「あなたにはムリ!」って止めてあげてください。

 鶴瓶の「グルー」も辛いけど。山崎の「ガーフィールド」はなさすぎる。お金返して!ください。



 大好きなロビン・ウィリアムズが亡くなって10年。もう10年も経つのかと感慨深い。そんな時が経って、ロビンの素顔のエプソードが出てきた。

 まずはサリー・フィールド。ロビンとの共演は93年の大ヒット作「ミセス・ダウト」。この映画では二人は離婚する夫婦を演じている。離婚して子供から引き離されたロビンが女装して家政婦「ミセス・ダウト」になって家庭に入り込むという話。


 この共演中にサリーのパパの容態が悪くなった。それを皆には悟られないようにしていたのに、ロビンに気づかれてしまう。ロビンはみんなには内緒で、その日の撮影を早く終了させるように段取りした、というのだ。

 この映画ではプロデューサーだったサリー。個人の権限を振りかざせば、どうにでもなる現場。それだけに逆に気をつかって黙っていたのにロビンは気がついてしまう。

 いつも気遣いの人だったというのはサリーの言葉。気遣いといえば96年の「バードケージ」で共演したネイサン・レインもロビンの繊細さに感謝しているそうだ。

 「バードケージ」はフランス映画「ラ・カージュ・オ・フォール」のハリウッド版。二人はゲイのカップルを演じた。レインは今でこそ、ゲイであることを公にしているが、90年代にハリウッドでは、カミングアウトすれば仕事を失うリスクがあると思っていたそう。


 しかし、映画の内容もあってプロモーションでは、そういう話題が出る。当時、アメリカで一番影響力のあったオプラ・ウィンフリーの番組に出た時、当然、その話を振られると思ったレインはロビンに相談する。

 大丈夫!とロビンは答え、オプラがその質問をした時、割って入って話題を返させたというのだ。その配慮を今でも忘れないというレイン。決して表に出さずに仲間を傷つけない心配りをしたロビン。こんなエピソードもロビンらしい。

 ライアン・ゴスリングがスタントマンを演じた「フォールガイ」。ハリウッドの派手なアクション映画を支えるスタントマンへの敬愛に満ちた王道の娯楽映画だった。派手なアクションシーン満載、ロマンスもありで、こういうハリウッド映画を観たかった!という作品に仕上がっていた。


「フォールガイ」★★★★☆

 映画はライアンがスタントシーンに失敗してしまうシーンからスタートする。この失敗で自信を失い、映画現場を去る。エミリー・ブラント演じる恋人は照明助手。ふたりはこの映画が終わればバカンスに行くつもりだったのに、ライアンは映画界から去ると共に彼女との連絡も絶ってしまう。

 クライマックスは、その数年後。ライアンの元のスタント復活の依頼が来る。撮影しているシドニーに飛ぶとエミリーは監督へ昇格している。よりを戻したいライアン、突然連絡が途絶えたことを根に持つエミリーとの行方不明って、その行方不明が、変な表現な関係はギクシャク。

 そんな中主演男優が行方不明になる。プロデューサーに捜査を依頼されるライアン。彼が調べて行くと、闇の組織へのつながりが見えてとの展開。

 ハリウッド映画のメイキングを見ているような展開。派手なアクションシーンの連続で正統派の娯楽映画に。ライアン、エミリーと美形で演技のできる俳優の共演も魅力的。


 

 昨年の春に公開された「ロストケア」が今週「映画com」のアクセスランキング部門で1位になっている。Amazonで配信が始まって、書き込む人が多くなったそうだ。

 松山ケンイチ、長澤まさみという魅力的なキャストの問題作。着想の元になっているのは、相模の福祉施設の大量殺人事件。松山ケンイチはその犯人役。長澤まさみは検事。

 松山ケンイチは、老人たちやその家族からも慕われる介護士。彼の勤める施設の死亡率が高いことから調査が入る。

 松山ケンイチは、老人たちへの殺人を「救い」の行為だと主張する。

 難しいテーマを重いだけの映画にしなかったのは、松山ケンイチの演技の力と前田哲の丁寧な演出力。 

 なかなかの秀作で、魅力的なキャストの映画なのに、あまりヒットしなかった。さらに、昨年の後半には同じようなテーマ性をもった「月」が公開。評価的には、こちらへの注目度が高くて、年末の映画賞では「ロストケア」の名前はなかった。

 今年になって日本プロフェッショナル映画賞で松山ケンイチが主演男優賞を受賞。やっと映画賞を得た。

 そして、Amazon配信で、公開一年を経て、アクセスランキング1位。見た人に命の意味の重さを問う問題作が注目を集めることになった。見れば何かを感じざるを得ない、意味深い作品。こうして、注目を集めるのはうれしい。

 

 佐野史郎が伝説の特撮監督を演じた「カミノフデ」。映画では佐野は死に、回顧展が開かれている設定。そこに孫娘が訪れて不思議な体験をするという展開。


「カミノフデ」★★★★☆

 観る前に「あまりにチープ」だというコメントが並んでいたので、覚悟して観た。でも、差し引きした期待を大きく上回る特撮愛に満ちた映画だった。

 でなければ、ほとんどギャラなどないに等しい映画に、佐野史郎や斎藤工が出るわけがない。

 映画は幼少の頃はおじいちゃんが好きだった孫娘(鈴木梨央)が主人公。しかし、成長すると、苦手になる。この会場へも、いやいや来る。

 そこへ、おじいちゃんの特撮映画のファンの同級生がいて、彼と特撮映画の世界に入り込んでしまう。

 それがおじいちゃんの最後の仕事て、完成しなかった映画だった。

 ネットでの「チープ」というコメントは若い人なんだろう。「特撮」はそれが魅力なのだ。あの模型感。CGでキレイに見せる真逆の魅力。

 自分で模型を組み立てて、戦争ごっこをするようなモノ。チープだから、想像力も掻き立てられるし、自分に引き寄せられる近しさがあるのだ。

 そんな魅力にあふれた映画。怪獣映画の造形を担当した、その世界のレジェンドの村瀬継蔵の初監督作品。まさに自伝的映画。観て良かった!


 アカデミー監督賞を最多4回受賞しているハリウッドのキング、ジョン・フォード。そのフォードと組んで数多くの名作を残したハリウッドスターの帝王ジョン・ウエイン。日本でいえば黒澤&三船のような存在。

 このコンビの48年の作品「3人の名付親」を見た。この映画でジョン・ウエインが演じているのは銀行強盗を企む西部男。ウエインには珍しいワルの役。3人で銀行を襲うが、計画を保安官に読まれて、追われる羽目になる。


 そんな逃亡の最中に妊婦に出会う。その妊婦は亡くなってしまい、赤ちゃんが残される。強盗3人組は仕方なく、赤ちゃんを連れて逃亡する。タイトルはこの強盗3人組が、この赤ちゃんの名付親(ゴットファーザー)になることに由来している。

 珍しいウエインの犯罪者役。しかしエンディングでは、赤ちゃんを救ったということでヒーローになり、町のみんなに見送られて列車で去るというハッピーエンディング。

 フォード&ウエインのコンビ作としてはプログラムピクチャーのような、いい意味で、力の抜けた作品。今の倫理観で見れば、なんだかなと思うような物語の展開なんだけど、それでも許せてしまうのは、鷹揚なウエインの魅力。


 

 ギョーム・ブラックの「宝島」が公開中。パリ近郊の大きなプールのあるレジャー施設を訪れる人々を描くドキュメンタリー映画。

「宝島」★★★★☆

 宝島という夢のあるタイトルなのだけど、ギョーム・ブラックらしい、現実をそのまま見せる映画。

 舞台になるのは大きなプールのある娯楽施設。プールのまわりには池などもあって、子供たちが橋から飛び込んだりしている。

 映画は子供たちだけで来た男の子が、大人が同伴していないことで、入場を拒否されるシーンから始まる。

 どうしてもプールに入りたい彼らは、池から侵入するが、警備員に見つかり、追い出されてしまう。

 こんな一般市民の何でもない日常が淡々と描かれる。

 ドキュメンタリー映画にありがちな社会意識などない映画。しかし、妙に記憶に残るのだ。それがギョーム・ブラックの侮れない魅力。

 それにしても、何も起こらない。普通の人の、当たり前の日常が写されるだけ。

 こんな人がパリ五輪の記録映画を作れば面白いなと思った。感動シーンのないオリンピック映画なんて、新鮮。