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何かの協奏曲

Concerto for Something.

先月末のことだが、所用で大阪に日帰りで出かけた。


新幹線に乗りながら、いつ以来だっけ、と考えた。

大伯母が存命のころは行く理由もあったけれど、それももうない。

亡くなって2年を超えたんだな、と思った。

今回は観光している時間もなさそうである。


数年ぶりの大阪は、どんよりと曇っていた。

寒くはないが、暖かくもなかった。

用事は梅田である。新大阪から一駅。

淀川を渡りながら、やっぱり見たことある景色だと思った。



京都は、違う。好きだけれど、どこか他人顔なのだ。

京大や同志社の友人を訪ねて、学生の頃は何度も泊まったけれど。

だから、平安神宮あたりを歩くと、懐かしくなるのだけれど。


新幹線が京都駅を出ると、左手に東寺が見えてくる。

いつ見ても、ピンとした姿の良い五重塔だと思う。

足元の洛南高校が見えて、ああ、あれが後輩のN君の母校かと思った。


好きだけれど、他人の土地なのだ。



大阪はその点、母親の郷里で、半分はホーム・タウンである。

本当に幼いころ、曾祖母が生きていたころから、何度来たのだろう。

ローカル電車の言葉に、ほっとしたりなんかする。



阪急梅田


だけれど。

「ここにおばちゃんがもういない」。それが意識に引っかかった。

「身内」だった土地が、身内じゃなくなってきたような。

もちろん親戚はまだいくらでも住んでいるのだろう。

だけれど、それほど縁があるわけでもない。

そうすると単に過去の町になったんだな、という気にもなる。



所用を終えたら、そそくさと新幹線で引き揚げた。

20時には、上京している妹夫婦と新横浜で会う約束になっている。

ホテルのラウンジで飲んでいて、不思議な気分になった。

ふたりの子供はまだ小さいが、それなりに懐いてくれている。

この子たちは、自分たちが「大阪人の血を引いている」なんて思わないだろう。

過去へ向かっていた意識のベクトルが、3時間で未来に向けられる。


俺はどこにいるんだっけ、と思った。

家に帰りながら、多摩川の向こう岸を眺めた。

淀川に感じたなつかしさ。多摩川のホーム感。

俺はどこに行くんだっけ、と思った。

あっちじゃねえな、ということだけは、わかった。



武蔵小杉

一か月ほど前、「黄色の酒盃がほしい」と書いた。

書いてみるというのは恐ろしい行為で、言葉にした意識は定着する。

どういうことかというと、それから黄色の酒盃が彼方此方で目についた。


前から、そのあたりにあるのはわかっていたのだ。

ただ、何とはなしに見ていたのと、ほしいという意識を持って見るのとでは、

同じ対象ではあっても、見え方がまったく違うのである。

もちろん、違って見せているのは、私の精神なのだが。


渋谷や銀座のギャラリーを、休日になんとなく見て回る。

黄色が目について、しばらく眺める。

気に食わなかったり、予算に合わなかったりする。


「いいものですよ」と店員に言われても、こっちの気に入るかどうかは別だ。

いいものだから気に入らなければならないという法はない。


あれでもない、これでもない。

そう思っていたら、期待していなかったところで、ひょこり出くわした。

池西剛の黄瀬戸である。


「お買い上げ」を期待している顔がない。

手が込んでいるのに、それを思わせない。

薄作りの、淡い黄色。だし巻き卵みたい、と思った。

なんでもないところに溢れている美意識が、気に入っている。



池西

アルヴォ・ペルト。

エストニア生まれの現代作曲家である。

1935年だから今年80歳で、記念CD盤 もリリースされている。


「現代音楽」が聞きにくい、というのは偏見である。

たしかに聞きにくいものもあるが、それがすべてではない。

だいたい、「聞きやすい」というのが、惰性に過ぎないのはよくある。

わかりやすいリズムと、わかりやすい展開。

思わず失笑してしまうものも、たまにある。


ではペルトの音楽は。

ひとことでいえば、「清潔」である。


塊から音のひとつひとつを取り出し、空間に放り出していく。

いや、放り出すという言い方はよくない。空間に置いてゆく。

音は置き去りにされて、しばらくふわふわと漂い、消える。

ちぎれた雲が、そのうち消えるような。


ひとつのフレーズが空中に置かれる。


切れる。


しばらく 漂って 消える。


どこに行ったんだろう、というほどの切なさだけ、残る。

残っているうちに、次が顔を出す。


悪く言えば、映画の1シーンの音響が連なっているだけにも聞こえる。

それはそれで否定できないけれど、あまり進んで肯定したくはない。

その程度には、好きな音楽である。



あるとき、ふっと気が付くと、ペルトのCDが棚に何枚もあった。

別に集めようとして集めたわけじゃないのに。

好きなヴァイオリニストであるクレーメルが頻繁に取り組んでいるからかな。

だけれど、店頭で視聴して買ったものもある。

まるで本人の音楽のように、そっと置かれていたような気分になる。


タブラ・ラサ、という曲がある。

何も書かれぬ破片、すなわち、白紙。


白紙の音楽なんてあるんだろうか、と思うけれど、たしかにある。

白紙ならば、文字で書くわけにはいくまい。

クレメラータ・バルティカのCD で、どうぞ。