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何かの協奏曲

Concerto for Something.

知り合いのいる銀座のギャラリーに寄ると、ちょっと見て行けという。

なにかおもしろいものでもあるのだろうと思ったら、古めかしい箱が出てきた。

するすると紐を解くと、直径10センチに足りないほどの白磁の碗である。


相当に古い。見ただけで骨董品だとわかる。

「金なんだ」という。むろん、中国の金王朝のことである。

宋王朝を華南に追いやった王朝だ。つまり、12~13世紀。

古いなんてもんじゃない。



手に取って、つくづくと眺めてみた。

12世紀ごろの宋磁を手に取ってみるのは、初めてである。

もちろん美術館やアートフェアで見る機会はいくらでもあった。

ただ、単に目で見るのと、触れてみるのとでは、やはり見えるものが違うのだ。


磁土というにはそれほど精製されていない土が、高台に覗いている。

まだ少し半磁土みたいだね、と、眺めながら言ったら、

釉薬も少しマットだから、全体にやわらかい感じがするだろう、と言う。

かたちは整っているが、材料や釉薬は少し素朴だ。



すこしクリームがかった、滑らかな陶肌である。

すうっと流れていきそうなカーヴをしている。


現在においては使う代物ではあるまいが、当時は何を注いだのだろう。

「葡萄の美酒 夜光の杯」と詠んだのは王翰だったか。

中国は酒の名に色がある。白酒、黄酒。

しかし、いまでいうプーアル茶だったかもしれない。

すこし想像が遠くへ飛ぶ。


ひといきついて、碗を卓の上に戻す。

もう一度、眺める。


「おもしろいね。でも、私は骨董には手を出さないんだ」と言うと、

知ってるよ、といって、片づけ始めた。

他人の知覚というものは、ほとんど永遠の謎のように思える。


科学的に分析すれば、青の光はおよそ450nmの波長で、赤の光は700nmだ。
しかし、それは違うと認識しうるというだけの話だ。
同じ450nmの光を、私とAが「同じように」見ている保証にはならない。

Aが主観的には「ピンクがかっている」色のように認識していてもいいのだし、
450nmの光を私の主観は「ややオレンジに近い赤」と捉えていてもいいのだ。


ずいぶん小さいころ、青い瞳で世界を見ると色が違うんじゃないか、と思った。
私にとっての黄色が、青い瞳の人には、少し緑っぽく見えたりしないのかな、と。
私たちの黒や茶色の瞳では、すこし世界は暗いのかもしれない、と。


他者が主観的に世界をどう知覚しているかは、こうして、私には謎のままだ。
脳科学の発達などで、実は解明されているかもしれないが、不勉強なので知らない。



同じように、音の開示する世界も、人によって違うのだと私には思える。


たとえば私には、鳥の声はよく聞こえてくるし、それだけに区別がつく。
早朝の無意識のなかで鳥が鳴いているのに気が付いて、やがて目を覚ます。
洗濯物を干していて、セキレイの囀りだなと、別に見ていなくてもわかる。
鳥は私の音風景のなかで、かなり大きなウェイトを占めている。


だけれど、風の音に驚くことはまずない。
風の音にぞおどろかれぬる、という音風景は持っていない。
雨の音もそうだ。雨の音は意識しなければ、それほど聞こえてこない。



なぜこんなことを思っているかというと、最近、武満徹の音が気になるからだ。
武満徹といえば、日本の現代音楽の代表だが、はっきり彼には彼の音がある。
それはピアノ作品にもオーケストラ作品にも刻まれている。

「そういう音」が鳴るとき、これが武満の音風景のなにがしかを反映しているのだろう、と思うのだ。
ドビュッシーともベリオとも違う、武満の音。その向こうにある、武満の音風景。
それは、どんな主観的世界だったのだろう。



使っていない徳利を友人が欲しがったので、忘年会に持って行った。

燗を容れるにはいいよ、ただ急冷すると危ないかもね、など講釈。


すると、これ、いるか、と友人が箱を出してきた。

備前の天塩皿、5枚組である。

ちょっとした漬物だの、塩辛だの乗せるのに良さそうだ。

ああ、いいね、もらっとくよ、と言った。


まだどういう風に使うかわからないが、帰宅して棚に並べた。

そのうち、気が向いたら使うだろう。



備前は一度、「飽き」が来た。

藤原啓だの山本陶秀だの、あるとき「もういいや」と思った。

カレーを食べるのに使う楕円皿以外、全部売った。

何年前のことだっけ。


ところが、気が付けばまた増えている。

茶色はもうたくさん、じゃなかったのか。


本当に、自意識なんて当てにならないものである。

陶器はそれを教えてくれると言ったのは、小林秀雄である。

あれがいい、これがいいなんて意識は役に立たない。

好きだと思わなくても集まって来るもののなかに、自分の好みはある。

意識できない意識の動きが、現実のものとして存在するのだ。

これは確かな「好み」の証明だろう。


土器のような器を食卓に並べながら、いくらか呆然とした。