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何かの協奏曲

Concerto for Something.

なかなか弾いているヒマがないからね。

そう言って、もうピアノは弾けないことにしていた。


実際に、昔のような指の筋肉は残っていない。

リストの楽曲を追いかけようにも、そもそも筋力が足りない。

音楽って、意外なくらい筋力が資本なのよね。


ただそれが、最近また少し弾いてみようという気になった。

なんとなく銀座のヤマハ本店に行って楽譜を眺めていたら、

武満徹の楽譜を見てみようと思い立ち、いくつか見てみた。


これなら弾けそうだ、と「リタニ」「雨の樹素描Ⅱ」を買った。

ショット版の楽譜を買うのは初めてである。

っていうかいわゆる「現代音楽」をやるの、初めてじゃない?


いま、「雨の樹素描Ⅱ」に取り組んでいる。

速いパッセージもないし、複雑な和音があるわけでもない。

♪=90だからかなりゆったりとしていて、音数も少ない。

ただ、冒頭から四声を処理し続けなければいけない!


さらに、音数が少ないから、拍子を正確にとるのが大変。

きちんと数えておかないと、入りが遅れたり早すぎたりする。


こんなにきっちり仕掛けられていた曲だったんだ、と感心しきり。

一年ほど前、妻が武満徹の「径」を練習していて、

おもしろいよと言っていたのだが、やってみて意味がわかった。

彼の曲は、恐ろしく丁寧に作られているのだ。

精巧な木工品のように、丁寧に緻密に。


楽譜を紐解いて、この人は好きだなあと思った。

熊本での地震が起きてしばらく後に、同郷人で飲みに行った。

飲みに行くこと自体は震災の前から決めていたことだったが、

私の家はほぼ半壊、友人のひとりは全壊。

もうひとりは、直接に地震のせいではないが身内が亡くなった。


どうしようかな、とお互いに思っただろう。

ただ、やろうとも止めようとも言わぬまま、数日が過ぎた。

とりあえず予定についてリマインダーを送ると、全員集まれるという。


在京の熊本出身者同士でないと、言いづらいこともあるのだ。


とりあえずビール、のあとで焼酎を飲んだり、馬刺しをつついていると、

(偶々、予約したのが熊本料理の居酒屋だったのである)

話は自然と地震のことに向かう。


震度7って聞いた時には、本当に血の気が引いたよね。

お前の家、どうなったの? ああ、壁が壊れて落ちたりしたよ。

僕が小さいころにいった銭湯は、煙突残して崩れちゃったよ。


写真をスマホで見せて回ったり、なんとなくグラスをいじったり。


俺たちの高校も壊れたみちゃーね。

そうそう。職員棟と教室棟をつないでいるところが破損したり。

あれ、「渡り廊下」、て言いよったね。

そうそう、渡り廊下。でも全然、渡り廊下じゃねえよな。


方言と、標準語と、変な関東風のしゃべり方が混ざる。


結局、そういうことなのだ、と思う。

僕らは熊本に帰るなんていう選択肢を、とうに放棄した。

ただ、まだ親が存命で、兄弟や友人がいるから気にする。

だけれど、言葉のレベルで僕らはもう離れてしまっている。


気にはなっているのだ。

観光資源と農業だけで産業を成り立たせていた地域が、

重要な観光資源のほとんどを失ってしまったということ。

どうやってこれからあの地域が復興できるか、ということ。


戦略が描けないよね、と口に出た。

そう、既存の資源と枠組みをゼロベースで考えないとね。

相槌が返ってくる。


だけれど、僕らは知っている。

些細な貢献――たとえば勤め先のリソースを少し回すとか、

少しでも余剰を作って復興にお金を回すとか――はできる。

だけれど、僕らはあの場所にもう15年以上暮らしていないのだ。


つまり、僕らはそこから始めなきゃいけない。

自分たちには、できることは何もないと認めること。

アウトサイダーとして、関係をつなぎなおさなければいけないこと。

どれだけ身内が被害に遭っても、私たちは被災者ではないのだから。

その経験が欠如したいま、僕らはアウトサイダーたるべきなのだ。


インサイダーのつもりで関わると、そこに齟齬が生じる。

「経験した」という事実は、実際に横たわってみると、かなり深い溝だ。

アウトサイダーはよりアウトサイダーに、インサイダーはよりインサイダーになる。


俺らはこっちで、やれることをやるしかねえよ、と一人が言った。

言わなくてもわかっている、とわかっているのだが、彼は言った。


最初の地震が起きたとき、たまたまテレビをつけていた。

震度7という表示が出て、血の気が引く思いがした。

熊本は私たち夫婦の出身地で、震度は東日本大震災を連想させた。

 

しかし予想に反して、実家や友人はへらっとしていた。

ああ、まあ大きく揺れたけどね、たぶん大丈夫だよー。

熊本城の瓦が落ちたり石垣が崩れたのは、あーあという感じだけど。

 

だけれど、翌日の夜中に電話がかかったとき、はっきりまずいなと思った。

よほどの用でもなければ夜中の2時半に妹から電話などかかるはずないし、

電話で言っていることも取り乱していて、いまいち要領を得ない。

すごい揺れが来たこと、車中泊をすることくらいはわかった。

ニュースサイトを見ると、M7.3とある。また血の気が引いた。

 

妻を起こして、家族や友人の安否を確認した。

必要なものをリストアップして送れるようになったらすぐ送る準備を始めた。

 

眠れぬ夜が明けて、テレビの中継が映す光景に、少なからず動揺した。

国道57号線と豊肥本線が土砂で押しつぶされている。

ここは阿蘇大橋がある場所のはずだとわかっているのに、橋はない。

 

 

東日本大震災は、私の精神に影響を与えなかった。

たしかに関東居住者だったが、東京はパニックを起こしたに過ぎなかった。

東北には親類もなく、友人が住んでるとも聞いていなかった。

大事件には違いなかったが、どこか遠い出来事だったのだ。

 

郷里が揺れて、実家も半分ほど壊れた。

高校も校舎と体育館が壊れ、使えなくなった。

市街地からいつも見ていた城は無残に壊れ、再建のめども立たない。

3年前の秋に訪問した阿蘇神社は、ぺちゃんと倒壊していた。

 

決して好きな街ではないのだ。いまでも。

復旧支援で、ジジイが威張りくさったり、妨害したりしているらしい。

こういうときだけ、仲間面して支援物資を分けてもらおうとする人もいるらしい。

ここぞとばかりに初動で溜めこんだやつもいるらしいし、

復旧に名を借りて、知名度や金を稼ごうとしているのもいる。

 

本当にうんざりする。

やっぱり嫌いだ、あの町は、と思う。

 

物資が届くようになり、知人が当座の瓦礫撤去を手伝ってくれた。

友人の商店は営業を再開し、ご祝儀でこっちも買い物できるようになった。

 

住んでいる友人や知り合いはなんとか支援しなきゃいけないな、と思う。

可能な範囲で、母校と熊本城の再建は手伝おうと思う。

 

たぶん、もう見られなくなったものがいくつかあるんだろう。

帰るたびに少しずつ変わっているなとは思ったけれど、

今回はもう、知らない街になっていくんだと思ったほうがよさそうだ。

 

そうなったら、嫌いになりようもない。

知らない街を嫌うことは、人には不可能なのだ。

知っている人を嫌うことは、なお可能だとしても。

 

知らない街になってしまっていいよ、と思う。

だから早く、安心して過ごせる街になるといいね、と思う。