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何かの協奏曲

Concerto for Something.

2016年になってすぐ、ピエール・ブーレーズが死去した。

現代音楽の作曲家にして、大指揮者のブーレーズ。

2年ほど前から体調が悪いとは詳しい筋から聞いていたし、

90歳という高齢だから、特に驚きもしなかったけれど。


だけれど、CDラックを覗くと、あちこちにBoulezがいる。

Boulezって文字を見るたびに、あ、死んじゃったんだ、と思う。

追悼といえば、追悼なんだろうか。

だけれど、もう半年経っちゃったよ、とも思う。

なんだって、私は遅いのだろう。


ブーレーズの指揮した音楽は、どれもシャープだ。

ひとつには、ベルリン・フィルやシカゴ響といった最高のオーケストラだから。

だけれどなにより、彼の指揮が恐ろしく明晰だからだろう。


たとえば、バルトークの『管弦楽のための協奏曲』の映像がある。

そもそも目で見ないと何が「協奏曲」なのかわかりにくい曲なのだが、

ブーレーズの指揮をたどると、ああ、そういうことか、と納得がいく。

なにが「そういうことか」なのかは、言葉にしづらいのだけれど、

音だけに馴染んでから見ると、「ああ、そういうことか」なのだ。


ブーレーズのすごいところは、しかし、音楽が豊かなところだ。


というのは、「わかりやすい」というのが、対象を切り詰めて、

やせ細らせて「わかりやすく」する人も世のなかには多くいる。

たとえば、学校の授業で「これはここだけ覚えておけばいいんだ」というタイプ。


私はそういうのは嫌いです。


対象の複雑さを紐解いてみせて、「ほら、こうできてる、おもしろいだろう」

そう言ってくれる人が私は好きだ。

話を聞いているうちに、余計わけがわからなくなってきたとしても。

複雑さを紐解いていくことと、単純化してしまうことは全然違うのだ。

だから、私は「要するに」を多用する人が嫌いなのだ。


脱線したけれど(そもそも軌道のない文章なのだ)、

ブーレーズの音楽は後者で、複雑なスコアをできるだけ精緻に分解する。

それをそのまま音に再現しようとするから、音楽がとても豊かになる。

これに慣れると、カラヤンは「一本調子だなあ」などと感じてしまう。


どうやったらストラヴィンスキーやバルトークの楽譜をあれほど読めるのか。

ああ、音楽教育の欠片くらいは与えられたのに、
ピアノのフーガもろくに読めない私には全然想像もつきません。



好きなCD。無理やり3つに絞ってみると、こんな感じ。


ラヴェル『ダフニスとクロエ』

 50分が一瞬で終わります。

 1幕の夜明けのシーンから、気づけば大団円になっている。

 というか、夜明けのシーンを最初に聞いたとき、もう鳥肌ものでしたね。

 なにこの妖しい豊麗な音楽は。


ラヴェル『ピアノ協奏曲集』

 クリスティアン・ツィメルマンの弾くラヴェルのピアノ協奏曲。

 ト長調(両手)もいいけれど、「左手のための協奏曲」が最高。

 7分前後の、ピアノと管楽器ソロの掛け合いを夏の夕方に聞いたら、

 もうそれだけで涙腺が緩みそうな演奏。


バルトーク『ピアノ協奏曲集』

 同じくツィメルマンの弾く第1番に魅かれて買ったんだけれど、

 エレーヌ・グリモーの弾く第3番が一番好き。

 この曲とこの演奏は、私の人生を救ってくれたんです。

 もう6年前の話だけれど。



先週、急須を新調した。


笠間の黒田隆さんの急須を気に入っていて、7年ほどになる。

ところが、テーブル脇で身体のバランスを崩した拍子に手をついたら、

急須の横手を破損してしまった。

あーあ、と思っても後の祭りである。

零れていくお茶を見ているよりほかない。


手のなくなった急須はなんだか無残で、中身をのぞかせていた。

洞窟のように空いた横穴から、茶葉と残りの液体が見える。

なんだか不気味なものを見た気がして、さっさと処理して捨てた。


翌日、最初に購入した店に電話して在庫を確認したら、あるという。

店に行くだいたいの時間を伝えておいたら、いくつか出していてくれた。


同じような急須がずらっとならんでいるが、よく見ると少しずつ違う。

口の角度であったり、取っ手の大きさであったり。

大きさもひとまわりほど差がある。


徳利や盃のように個性的な作品が好まれるものだと、

同じ用途でもひとつひとつ違うのを当然と受け取る。

ところが、急須だとどうしても実用性に目が行きがちで、

造形の違いの、特に細かい差異までは気にしないものだ。

使いやすそうだ、使いづらそうだ、が先に立って当然だから、

その条件さえクリアすれば、あとはそれほど気にしない。


もちろん、世の中には急須コレクターのような人がいるのは知っていて、

宜興の茶注だとか、備前の宝瓶だとか、あれこれ集めているらしい。

おそらくそういう人は、細かな造形差から直観的に「いいもの」を選ぶのだろう。


私はそういう観点で急須を選んだことがないから、

同じような数個を前にして、とりあえず戸惑ってしまった。

これは、我ながら面白い。

盃や湯飲みだったらさっさと選ぶのに、急須は選べないのだ。

これだと持ちにくいか? これは注ぎにくいのではないか?

そんな疑問がぐるぐる回って、ハテどれにしよう、と戸惑う。


結局、優先する「条件」を決めて、その順に撥ねていったら決められた。

決められたのだが、まずもって急須には「選別眼」がないのもわかった。

差異がなにを意味するかがわかっていないと、私は選べない、というわけだ。

急須を買う機会が何度もありはしないだろうから、かまわない。


持ち帰って使ってみた。何の支障もない。

よしよしっと思っているのだが、この感覚は書いておく気になった。


梔子の匂いがした。

道路から庭の植え込みを見上げると、そこにある。

細い花弁が放射状に広がって、香りを発していて、

昼ならクリーム色と見えるのだろうが、夜道では白に見える。


梔子、と空中に書いてみて、読みづらいな、と思った。

だけれど、くちなしとかクチナシとか書いても、ピンと来ない。

カタカナは他人行儀だし、「くちなし」は少し不気味だ。

やっぱり梔子か卮子がいい。


小学校の通学路に、梔子がずらっと植えてあるところがあった。

観賞用だったのだろう、バラのように幅広な花弁をつけていて、

5月の連休が明けると、むせるような匂いがした。

道路の反対側には古い銭湯と長屋があったと思う。


弓なりに曲がったその道に沿って行けば、私の家があった。


匂いに誘われてそこまで思い出したけれど、そこが行き止まりだ。

クラスメートに誰がいたっけ、となると、もう思い出せない。

わかるのを指折り数えてみたが、10人に満たない。

たぶん小学生なりに、好きな子でもいたんだろう。

それも誰だったのか、わからない。

住んでいた家は、とうに人手に渡ってしまった。


2、3本咲いているところから数十メートル離れる。

匂いが消えると、なにか思い出しそうだったことも、消えた。