たまたまなのかもしれないけれどね。
どっちにする?
どうしたい?
どれにする?
「先に歯を磨く?あそんでからにする?」
とか
「自分で靴を履く?手伝う?」
とか
ね。
自分で決める、の繰り返しの日々だったな。
息子たちが小さいころ。
ひとつひとつ。
私が決めていたのは
食事の時間と、消灯の時間だけ。
動かさない時間だね。
冒頭の、たまたまかもしれない、っていうのが
先日、息子夫婦
靴の話から
ちょっとくたびれ気味の(笑)靴をはいていたんだけど
新しい靴を、いやがって(履く前から)いるという話。
「選ばせればよかったよね」という会話をしていた。
笑。
なにからなにまでを、自由に選ばせるというのとは違うんだけど
「気持ちを尊重しているんだな」というのが
伝わってきたエピソード。
選択肢が多すぎると混乱するし、
本人が理解できる中で、「自分できめた」という体験を積むのって大事。
選択しを、その子の成長にあわせて示して
「じぶんできめていく」
べビ男は、語彙が豊富なので
自分の気持ちを、伝えることも得意。
おそらく、べビ男が一生懸命何かをしゃべっているときに
ことばを、かぶせたりしないし
ことばを、うばったりしないし
先回りしないから
べビ男は、安心して「自分の気持ちにぴったりなことばを探して、伝える」ことがどんどん得意になっていくんだな
って
私の解釈。(心の中。。いや、ブログに書いちゃってるけどその場では心の中)
わたしはどうだったかな?
超絶過保護の自覚はあるわ。
でも、
自分できめる、自分でえらばせる、は大事にしていたこと。
息子は覚えていたのかは知らないけれど
同じように、していて(わたしよりもずっと洗練されているけどさ)
勝手に、嬉しがりましたわ。
息子たちが、どんなふうに子育てしていくのかを見るのは
かなりたのしい。
かわいい。