関西の音楽活動グループConceptusのブログです。
これは、フィガロの結婚の自筆譜の一部、
第3幕裁判の場面の、レチタティーヴォの自筆譜、
そのファクシミリです。
ベーレンライター社から刊行されたものが
大阪音楽大学図書館にあり、
ピアニストの石原綾乃ちゃんと突撃致しました。
なぜその人選だったかというと、
京都新島会館の公演は弦楽アンサンブルとピアノ、
という編成で上演しますが、
そのピアノを弾いてくれるのが綾乃ちゃん、
彼女が管楽器、打楽器の要素を補充してくれるからです。
前の戦争(といっても応仁の乱ではありませんw)で、
本来ベルリン国立図書館にあった資料が行方不明になりましたが、
フィガロの結婚もその一つで、第3幕と第4幕が行く方知れずでした。
その後、ポーランドのクラクフにあるヤギェロン図書館にある、
ということがわかったのですが、当時は東側の共産国家ゆえに、
おいそれと西側が手出し出来る状況ではありませんでした。
それで、1960年代に刊行されたフィガロの結婚の新全集版は、
3幕以降は自筆譜に依ることが出来ぬままでした。
近年になって、閲覧することが出来るようになり、
その情報に基づく新版が出されました。
そのため、3幕以降での変更点も出ました。
例えば、伯爵夫人ロジーナの3幕アリアのテンポですが、
旧版はAndanteだったのが、Andantinoに変わりました。
Andantinoは、現在ではAndanteより速いことを意味しますが、
18世紀には逆の解釈がされていた速度表示です。
そもそも18世紀には、Andanteには遅いテンポ、
というイメージがありませんでした。
いわば、「歩く」ことを意味する言葉なので、
その言葉が弱められる語尾変化があった場合、
それは遅くなるわけですね。
つまり、ロジーナの3幕アリア「Dove sono」は
遅いテンポでよいのです。
さて、上の写真も変更箇所です。
とはいえ、いくつかの解決法は考えられる箇所ですから、
これから書くことはその一つだとお考え下さい。
Don Curzio(ドン・クルツィオ)のセリフが書かれています。
「O pagarla, o sposarla(支払うか結婚するか)」から始まるセリフです。
自筆譜にはこの後もクルツィオのセリフとして書かれていますが、
歌詞を見ると「io t'ho prestati due mille pezzi duri」
と書かれています。
このままでは、「io」とありますから、
「私がお前に2000ペソ貸した」ということになります。
実際に貸したのはマルチェリーナですから、
「彼女がお前に貸した」でなくてはならず、
現行のベーレンライターはもちろんそうですし、
たいていの上演では、その意味の歌詞である
「Lei t'ha prestati」と表記されています。
ここで参照すべきは、初演に際して印刷された、
ダ・ポンテによる台本です。
これもこのファクシミリに掲載されています。
ここには、
Don Curzio:O pagarla, o sposarla
Marcellina:io t'ho prestati due mille pezzi duri
このように記されています。
おそらくダ・ポンテの原稿がそうだったのでしょう。
状況証拠から考えると、
モーツァルトがクルツィオにこのセリフを譲渡しようとして、
人称の書き換えを忘れてしまったのではないかと思われます。
少しボーマルシェの原作に目を向けてみましょう。
マルチェリーナはクルツィオのバカさ加減に呆れ、
どもって言葉がなめらかに出て来ない様子に、
イライラしているような印象を受けます。
その空気をオペラにも移すなら、
どもりながら発したクルツィオのセリフを横取りするように、
io t'ho prestati due mille pezzi duriと続ければ、
イライラと同時に、フィガロへの執着を示す手段にもなり、
より緊迫した、白熱の裁判が展開できるのではないかと思います。
ゆえに、今回の上演では、
ダ・ポンテの台本に従ってみたいと考えました。
実は、この「io」を採用している楽譜が、
ペータース版なのです。
ただ、フルスコアとヴォーカルスコアに違いがあり、
フルスコアは括弧付きでMarcellinaと書いてあるのですが、
ヴォーカルスコアはその表記がないので、
自筆譜のように、クルツィオが「io」ということになっていて、
やっぱり何か変です。
一体そこには何があったのか、
長年フィガロに取り組んでいると、
これに類する疑問が浮上していました。
今回、自筆譜を直接検証することで、
それらの疑問が解け、また解決法が編み出されと、
かなりのすっきり感を得ることができました。
また、テンポ設定を変えたナンバーもあります。
自筆譜とはこのように使用するものです。
昨今、自筆譜を見ました、というコメントの上で、
演奏しているのを聴いたこともありますが、
自筆譜にあたることが、どう役に立ったのか、
明確でない演奏は大変多いです。
「やっぱり作曲家の息遣いが・・・」
そんな感傷的な感情論、どうでもいいです!
自筆譜はオマージュのためにあるわけではありません。
情報を得るためにあるのです。
作曲家の気迫は、作品そのものから感じて下さい。
皆さんも是非、自筆譜にあたって下さい。
もちろん、貴重な情報源として、です。
