関西の音楽活動グループConceptusのブログです。




こうやって自筆譜などの源泉資料を追いかけていると、

時々私のことを誤解される方も出てきます。


よくあるのが、

「ぼんちは原典主義者で作者の意図通りを望んでいる」

という単純な見解。

少し物のわかった人であればこう考えるようです。

「その癖、作曲者の指定と設定を変えたりする、矛盾してる!」


どっちも私の一面しか見えていないようですし、

よくあるパターンでしか物を考えられない人のようです。

なぜ私が源泉資料を渇望するのか、

考えてみようとしたことすらない、ということになります。


世の中には、源泉資料を神棚に祀り、

朝晩拝みあげて、なるべく従おうと考えるタイプと、

私みたいに源泉資料を手に入れて、

解体作業に勤しんで自分の技を編み出そうとするタイプがいる、

ということを覚えておいていただきたいと思います。


解体派の私がどういう設定の演奏をするかというと、

現代に生きている私が、タイムマシンで当時に行き、

作者たちと知り合いになり、初演を任されたが、

意図は聞けないままに指揮と演出をすることになった、

さてどう上演するか・・・という設定で、

やるであろう演奏をするのです。


今の私がタイムマシンで行った、

というところが結構ミソで、

ことに演出にとってかなり重要なことです。

亀裂の入る貴族夫妻、

キリストになぞらえたドン・ジョヴァンニ、

私の描き出すものを観て、お上が黙っているとも思えない。

官憲が動き出したら、即刻ずらかることが出来る設定、

まさにタイムマシンしかないと思います。(笑)


これ、ガチガチの原典主義者に出来る発想じゃありません。

そんな人なら、「モーツァルトに方法を聞けたら」とか、

初演はモーツァルトにしてもらって、2回目から振るとしたら、とか

そういう発想をするはずです。


演出にしてもそうで、

私のフィガロが一般的なものと印象がかなり違うのは、

予算の都合もあり、当時の衣装やセットじゃないことと、

設定をかなりボーマルシェの原作に戻し、

「罪ある母」への導入として作り直しているのが原因で、

何の根拠もなく勝手な想像でやっているからではありません。


前回示した裁判シーンのレチタティーヴォにしても、

まず、成立事情を類推して、証拠物品を揃えないことには、

結論の出しようがないわけです。

いじるなら、そうしたことをわかった上でないと、

確信犯になりようがないのです。


3幕の演奏順序もその一つです。

今回自筆譜を読んで、演奏順序の結論が出せました。

舞台上演するならば、

伯爵のアリア→バルバリーナとケルビーノのレチ→ロジーナのアリア→

裁判シーン→アントニオと伯爵のレチ

という、レイバーン学説という順序でいきます。

これは、ボーマルシェの原作がこの順序で進むからです。

そのために、バジリオとクルツィオ、バルトロとアントニオは

それぞれ別人に演じてもらいます。

つまりソリストは11人。

しかし、演奏会形式で演奏するならば、

伯爵のアリア→裁判シーン→バルバリーナとケルビーノのレチ→

ロジーナのアリア→アントニオと伯爵のレチ

という、楽譜の順序に従って演奏します。

ゆえにバジリオとクルツィオ、バルトロとアントニオは、

それぞれ1人の歌手に歌ってもらいます。

つまりソリストは9人。


当たり前だろ、と言われてしまうかもしれないけれど、

確信持って決定を言うためには、

それなりの根拠というか、後押しが必要なものです。

何を重視して、何を切り捨てるかなんて、

印刷されてしまった出版譜ばかり見ていても、

100%の決断の根拠は感じられないものです。

そこはそれ、「源泉資料の持つ目に見えない力」という、

感情論のようなものだと思います。

そういうリスペクトがないかといえば、

それはやはり、私にもあると思います。


しかし、指揮者として、演出家として

そこにのみ溺れてしまうわけにはいかないんです。

ことに私のように、それらを兼任している以上、

冷徹な判断を下して独自のものを作っていくわけですから。


もう一度言います。

自筆譜は、作曲家の意図を実現するツールなだけではありません。

作曲家に、知的で楽しい喧嘩を売るツールでもあるんです。

それが私の中の・・・「俺の自筆譜」です。