田名網敬一 記憶の冒険
国立新美術館
2024年11月4日(月)
いい意味でインパクトのある展覧会で想像の上を行っていました。しかし、見終わった後の読後感は少し違いました。
幼い頃の空襲の記憶、結核を患い四カ月にわたる闘病生活という死との対峙の経験が、カオスでグロい作品世界に影響しているといいます。
グラフィックデザインの実績は華々しく学生時代から仕事を受けて現在に至るまで第一線で活躍、時代の流行の先端を走り続けてきました。
初期のポスターです。
昔はこういうポスターはグラフィックデザインであり、ファインアートと線引きがありました。今では美術館に展示されることは珍しくありません。
アンディ・ウォーホルの影響から作品一点主義に異を唱えています。大量の複製可能な商業的印刷物も作品であるというスタンスで、今日では先見の明があったという評価になってきています。
忙しい仕事の合間をぬって、コラージュを始めるようになります。
アニメーションの制作も手がけます。
立体作品も溢れんばかり。
この方の作風からして、アルチンボルドに行き着くのはよくわかります。
多用される奇妙なモチーフは、当時の流行したスタイルでもあり、作者の記憶の断片でもあり、妄想でもあります。単なる繰り返しとも違い、どこからともなく無限に湧き上がる巨大な津波のようなものです。
コロナで仕事がなくなった時期にはピカソの模写に取り組みます。後半のキュビズムの時代の作風で平面化された顔のパーツの組み替えのような描き方にハマるのもよくわかります。
DTPを活用するようになって無数の素材の組み合わせで大量生産が可能になります。
ご本人がインタビューで、深く作品を掘り下げることはしないと明言しています。商業的な仕事が中心で、納期のある仕事を大量にこなす中でアウトプットを優先する、クライアントの意思がトリガーとなる仕事は自分の主張とは分けて取り組むという姿勢が染み付いているのでしょう。
どの作品も情報量が多く、一定のクオリティは担保しています。ただあまりに同じモチーフを繰り返し使いコラージュという技法で制作を続けると、似たものばかりを再生産し、何が伝えたいかわからない作品もでてきます。
一方で異物が混入すると、それをキッカケに際立つこともあります。赤塚不二夫とのコラボなどは、ナンセンスさが際立っています。
こちらは adidas とのコラボ。
以前、イラストレーター宇野亜喜良の展覧会で感じたのですが、何かテーマを掲げずとも強いビジュアルを創作できるクリエイターがいて、田名網敬一はそういうタイプの一人ではないかと思います。
江戸時代の浮世絵師のように時代を生き抜くために誰にも真似のできないものを作り続けているうちに誰もついて来れない高みに辿り着いていた、本人も何を作っているか理解していなかった。葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」が何を伝えたいのかといっても、ビジュアルインパクトとしか言えない。それでも世界を制してしまう。あれと似た類いです。
見終わった後、スゴイものを見たと思う反面、一体何を見たのだろうとも思いました。何でも解説できる訳ではないのがアートですから、こういうこともあります。
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