杉本博司 本歌取り 東下り

渋谷区立松濤美術館

2023年11月5日



杉本博司は、コンセプチュアルアーティストです。


作品が多様、活動領域も広く、肩書きが多いですがそれが本質です。何でもないものがアートになるのは、コンセプトで武装しているから。


ここでは「本歌取り」というコンセプトが、すべてをアートに変えます。正直こじつけっぽい「本歌取り」もありますが、コンセプチュアルアートはそういうもので、人によって好き嫌いがあるジャンルです。


「本歌取り」は「本歌」を知る必要があります。ですからキャプションの解説で本歌を理解してから作品を鑑賞した方が良いでしょう。

タイトルの「東下り」は、姫路市立美術館で行った同名の展覧会を東方に下って開くから。首都である東京に対して「下る」という言い方は、都が京都にあった時代のものです。「本歌取り」という平安時代の和歌の伝統技法と同時代の価値観をタイトルとし、展覧会そのものも本歌取りとなっています。

時間の間


パリのオペラ座のガルニエ宮のシャガール天井画にインスパイアされて生まれた作品。円形に音楽の題材を描いた絵が並ぶ配列が、時計の文字盤に絵を描くというアイデアにつながっています。時計の針は逆回転する仕様で両脇の鏡に映して見ると通常の方向に回転して見えます。時計を入れている木箱は厨子(おそらくとても古い品)です。古今東西の事物を納めた時間の箱と見るか、ガラクタで制作した夏休みの工作と見るか、見る方の自由です。



フォトジェニック・ドローイング006

チャールズ・ポーターの肖像



古いネガを手に入れ焼いただけですが、あら不思議、アート作品に早変わり。


ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットは、19世紀のイギリス人でネガポジによる写真技術を発明した人です。彼の撮影したポートレートのオリジナルネガを入手した杉本はそれを使ってポジを制作しました。当時の化学薬品の準備など、作るのは簡単ではありませんが、とはいえ焼いただけです。そこにオリジナリティが付加されているようには思えませんが、ネガを使った本歌取りとして作品を制作しています。



甘橘山春日社遠望図屏風(かんきつざん かすがしゃ えんぼうずびょうぶ)


杉本博司がライフワークとして取り組んでいる小田原の江之浦測候所から海への眺望です。江之浦測候所は別の機会に取り上げるとして、ここに奈良の春日大社から分祀した「甘橘山 春日社(かんきつざん かすがしゃ)」があります。右下に見える小さな赤い建物がそれです。

奈良の春日大社の裏、東側にある春日山から見下ろす景色の本歌取りとなっています。


富士山図屏風


富士山を描いた絵で最も有名なものは葛飾北斎「富嶽三十六景」であるということに異を唱える方はいないでしょう。その中で「凱風快晴」が代表作であることも疑いないでしょう。浮世絵の名作を同じ構図で写真を用いて形にした作品です。先述の海の景色の写真といい、本歌取りというより、そのままの風景写真という感じもしますが綺麗な屏風です。


春日大社藤棚図屏風


春日大社の社紋は「下り藤」。春日大社の植物園は藤の花の名所です。これは何が本歌取りかわかりませんが、美しい写真です。



月桂樹葉形尖頭器


考古学者、博物学者は収集癖があると言われます。杉本博司も同類の感性を持っているように思えます。こうして集めた古い品々が本歌取り作品には重要なピースとなります。それにしても何万年も昔の石器も個人で収集できるというのは知りませんでした。古い石器でありながら純粋に美しい造形です。



Brush Impression 0625 「火」


コロナの期間中、活動拠点のニューヨークに帰れなかったために、現地のスタジオで保管していた印画紙が使用期限切れでダメになり、無駄にせず何か作れないかと考え生まれた作品です。薬品をそのまま絵の具(墨汁)がわりに使い、揮毫しました。臨書して書いているそうです。お手本は有名な書だと思いますが情報はないので、誰の書の本歌取りかはわかりません。それにしても杉本博司もこれほどインパクトのある仕上がりになるとは想像していなかったのではないでしようか。


相模湾、江之浦


代表作である海景シリーズは、世界各地の海を撮影した風景写真です。並べて展示してあるとみんな同じに見えて「何これ?」と思います。世界中を巡った熟練の航海士であれば、波の形でどこの海かわかるのかもしれません。わからない私のような凡人は作品名を見て、地球の裏側まで行って撮影してきたと知り驚きます。この海景は江之浦測候所のある相模湾です。



カリフォルニア・コンドル


初期の代表作「ジオラマ」シリーズのひとつと思われます。アメリカの自然史博物館の剥製を使ったジオラマを本物の自然のように撮影したものです。掛け軸に仕立てたのは中国の水墨画の風景画の本歌取りですが、むしろ剥製が生きているように撮影できていることに驚きを覚えます。

 

写真にリアリティはあるのか?

写真のリアルとは何か?


映像のリアリティがディープフェイクによって揺らぐはるか以前から機械的記録装置のリアルについて、アートは問いかけてきました。答えは難しいですが、アートはそれを呑み込んで進化しています。


時間の矢


ロケットの中に海景の写真、ではなく、火焔宝珠形舎利容器のカケラ(?)に海景の写真を入れた作品です。舎利とはお釈迦さまの遺骨のことで、仏舎利とも言います。仏舎利塔といえば舎利を納める塔、舎利殿と言えば舎利を祀るお堂のこと、舎利容器とは舎利を入れる容器です。どうやって手に入れたのかはわかりませんが、鎌倉時代の舎利を納める容器の宝珠の部分に海景をはめ込んでいます。制作された年代の違う事物を組み合わせて時間を取り込んでいます。タイトルの「時間の矢」は物理学の時間の矢のことでしょうか。鎌倉時代から現代までを不可逆に貫く仏の智慧を具現化したもの、考え過ぎですかね。




さて、disるつもりはなかったのですが批判めいた文章になってしまいました。コンセプチュアルな作品だとどうも捻くれた見方になりがちです。とはいえ、このコラムのタイトルを「Conceptual Cafe」としているように私はコンセプチュアルアートは好きです。私はアートは観る者がその心の中で完成させるものという考え方に賛同します。杉本博司の作品は、見るだけでは成立せず制作の過程や素材の出自を知って全体像を自分の中で構築して完成に至ります。


そのプロセスは面白いものですが、心の中に完成した作品を評価するのはその後です。どこまで行っても便器は便器で、私はそれを美しいとは言いません。一方で本歌取りでなくても藤の花の屏風は美しいと思いました。それもひとつの真実です。言っていることが矛盾しているでしょうか?


心は自由ですから内に湧き上がる感覚のみをよすがにアートと対峙する、それが私のアートを見るコンセプトです。


 

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