デイヴィッド・ホックニー展
東京都現代美術館
2023年7月17日(日)
良い展覧会でした。
ホックニーは見たものをいかに二次元上に再現するかを真摯に追求し続けているアーティストでした。初期の代表作から80歳を越える今日まで、一本筋の通った創作活動を精力的に続けています。
10 ビバリーヒルズのシャワーを浴びる男
裸の男がシャワーを浴びている様子。前屈みで後ろ姿を捉えている。身体に当たった水(お湯?)が四方に飛び散っている。湯浴みをする女性はよくある画題。男ではあるが、神話のワンシーンではなく現代のただの浴室、手前に真っ黒な何かの観葉植物のような大きな鉢植えが描いてあり、覗き見るような見え方になっているところ。男性ヌードでありながら、エロティシズムを意識させる。
14 スプリンクラー
スプリンクラーが水を芝生に撒いている、それだけの絵です。ホックニーはアメリカの西海岸で生活していた頃に、自宅の近辺、プール、庭、家などの身近な景色を多く描いています。自分の周りには人工物しか存在しないことに気づきそれを描いていたそうです。何でもない景色を描いているのに独特な印象を受けるのは何故かしらと感じていたのですが秘密はそこにありました。確かに、自然の要素はなく、さらに歴史的、文化的伝統も感じられないものに囲まれた世界。西海岸独特の明るさも色彩に還元し、スタジオのセットのような作られた感じを高めています。
27 クラーク夫妻とパーシー
窓辺にたたずむクラーク夫妻。妻は立ち、夫は腰掛け、その膝の上に白い猫がいる室内画です。背後の窓からは外光が入り、人の姿は逆光となっています。
この時期に多く制作している人物二人を描くダブルポートレート。二人の距離感が微妙、少し離れて、視線が合っていなかったりして、どこかよそよそしくも見える。私はこれを現代社会における人間関係の希薄化みたいなものを描くのが狙いと思っていたのですが、どうもそうではなかったようで、どちらに偏ることない二人の存在感を絵画に持ち込むための工夫だったようです。手前のテーブルのパースが消失点と合っていないのは、鑑賞者が絵画空間に入り込みやすくする仕掛けだとホックニーが言っています。写真のように見たままに描いても、それが実際に見た感覚と一致しない。そのギャップを埋め、絵画の中でどうやってリアルを実現するか、それがホックニーのテーマです。
30 2022年6月25日、(額に入った)花を見る
写真、iPad を使い制作しています。額縁に入っている花の絵はiPadで描いたものです。近くで見るとよくわかるのですが、あまり高度な使い方をしていない。色を選んでフリーハンドで描くだけ。左右の椅子に座って絵画を見ている二人の男性はもちろんホックニーです。とても大きな作品で、コンピュータで描いて、出力したものを壁に貼って完成させています。タイトルの通り、花を見る作品で、絵の中のホックニーが壁の花を見る感覚と同じ感覚で、鑑賞者にこの壁の花の絵を見てもらおうという作品です。
65-84 版画集「ブルーギター」
ピカソのキュビズムの作品にインスパイアされて、生まれた画集。徹底的にキュビズムで人物や花瓶などを描いてます。単一視点ではなく複数の視点で、でも対象の解体の程度は原型を判別できるレベルにとどめていて、その成果が後の展開につながっていきます。
101 龍安寺の石庭を歩く 1983年2月、京都
遠近法に勝つということをテーマにした作品だそうです。単一視点ではなく、視点を動かすことを目的にカメラを使っています。庭の端から撮影、一歩動いて撮影、また一歩動いて撮影これを繰り返して、大量の写真プリントで画面で再構成する。単一視点でワイドレンズで石庭を撮影しても、その場にいる時の臨場感が写真には残らない。機械的なアプローチで制作したキュビズム的写真作品。この方法があったかと思いました。
108 スタジオにて、2017年12月
ホックニーのスタジオを描いた作品です。広いスタジオの中にホックニーの作品が並べられ、ホックニー自身の立ち姿も描いています。透視図法の特性として、画角がワイドになると離れた対象は極端に小さくなるということがあります。並べられた作品の実際の大きさとは違うバランスになり、本来対等なはずのもの同士に順位がついてしまう。このような問題を解決するために、複数の視点を持ち込み、作品のサイズを揃え、形を崩し、再構成する。床のカーペットの消失点がない平行四辺形になっているのも計算でしょう。現実空間のモノ同士リアルな関係を絵画空間でいかに再現するか。それを追求した作品で、これはひとつの到達点だと思います。
109 ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作
展示室の壁を天井の高さまで埋め尽くす大きな風景画、実物に近い体験をさせる絵画です。大きいものは大きく描いた方が臨場感があります。現代人は映像の大小に慣らされ過ぎています。スマホの画面に映る友人の写真を見て「どうしてこんな小さくなってしまったの?」などという人はいません。それが、不自然だと感じない。手のひらサイズの画面は、見るものの身体に影響を及ぼさない。この作品では、画面に近づけば木は見上げて見ることになり、木々の間から奥に見える景色は存在感を増してきます。見るという行為は目だけの運動ではなく、身体動作、引いては身体感覚も常に伴って行われているのです。
110 四季、ウォルドゲートの木々
4つの映像でひとつの映像作品です。四方を囲む形で4つの大画面がロの字形に配置されています。それぞれウォルドゲートの森の道をゆっくり進む四季の映像(春、夏、秋、冬、)です。
大画面は3×3、9台のモニターで構成され全体として一つの映像、風景なのですが、微妙に映像の繋ぎ目がずれています。こうすることで、枝や、地面、葉、雪、この森の細部が全体の中の景色に呑み込まれず、それぞれにフォーカスが合う、風景全体と個別の対象両方に視線を誘導することを実現した作品です。
123 春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年
春の到来を、森の広がりを、奥行きを、小さな花を、一枚一枚の葉を、どうやって見せるか。この作品もホックニーはiPadを使って絵を描いています。単純に絵筆をタッチペンに持ち替えているだけ。線も不安定で素人っぽい。
でも、下がって全体で見ると絵画らしいのはさすがです。そして大きさに必然性が感じられます。実際にこの森にいるような気がしてくる。人間のサイズと絵のサイズが合わせてあるところが肝だと思います。人工的で派手な色彩が多く、補色もはいっていながらうるさく感じず、むしろ心が落ち着いてくるインスタレーションのような風景画です。
124 ノルマンディーの12ヶ月
透視図法を使わないというテーマを実現するのに、ホックニーが用いたのが、絵巻物のような超横長画面。我々日本人には珍しくは無いですが、現代美術のアーティストにとっては野心的なアプローチでしょう。連続性をもったひとつの作品として完成されているか見てみましょう。
まあ、合格ですかね。
徹底的に派手な色使いでも、のどかな森や農村になっているところに、ホックニーらしさを感じます。
それにしてもこれだけ現代のガジェットをナチュラルに使うアーティストも珍しい。油絵の具ではなく、デジタルな画材を用い、カラー出力を貼り合わるという手法でも、オーソドックスな絵画作品を作ることができる。この企画展の最大な発見はそれでした。
これからの進化にさらに期待できるアーティストです。
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