ジャム・セッション 石橋財団コレクション×森村泰昌 

M式「海の幸」
ー 森村泰昌 ワタシガタリの神話
アーティゾン美術館 
2021年10月30日(土)

 
ジャム・セッションは一年に一度開かれる企画展。石橋財団コレクションと現代美術家の共演で昨年の鴻池朋子に続いて2回目。今回は森村泰昌です。
絵画や写真の人物に変装して作品にするという独自の表現で有名な彼が、アーティゾン美術館が所蔵する明治時代の洋画家 青木繁「海の幸」にインスパイアされどのような作品を創るか?
 
観てみた率直な感想は「企画にうまくハマった。」
 
森村泰昌の作品は模倣する元の作品を知らなければピンと来にくいという弱点があるのですが、青木繁作品の実物の展示があり、続いて森村泰昌の作品が展示されているので大変わかりやすい。森村泰昌の解釈、制作のためのジオラマや下描き、変装の衣装の展示、そして完成作品の展示、映像作品の上映と次のような構成となっています。
  • 序章 「私」を見つめる
  • 第1章 「海の幸」鑑賞
  • 第2章 「海の幸」研究
  • 第3章 M式「海の幸」変装曲
  • 第4章 ワタシガタリの神話
  • 終章
第1章で「海の幸」を含む青木繁の絵画の展示と解説、それに対する森村泰昌の解釈が詩の形式で書かれています。慧眼だと思うのは青木繁は風景の画家と断じていることです。
 
代表作である「わたづみのいろこの宮」「海の幸」など人物画の印象が強いのですが、特定の人物の人格、個性に迫るというより、ある場面、出来事を描くことに注力しているように見えます。
 
それから「海の幸」。
 
 
友人の画家坂本繁二郎が千葉の海辺で見た大漁の陸揚げの話しを元に想像力で描いた作品です。
 
全体としては漁を終えた裸の男たちがサメを担ぎモリを持ち砂浜を歩く力強さ、逞しさが生命力を感じさせる群像ですが、次第に中央右の白い顔の人物のこちらを覗き見るような目にどうしても焦点がさだまっていき不安な心地になってきます。さらにわざと仕上げきっていない下描きの線の不完全さ未完成さがいわゆる写実絵画とも一線を画す作品です。
 
森村泰昌はこの「海の幸」にインスパイアされて10点の作品を制作しました。もとの構成・構図を一つの様式として、時代を変えてそれぞれを象徴する人々の姿、当時の景色を描いています。
 
第2章が制作プロセスの展示。
 
第3章は作品展示、
M式「海の幸」変装曲(変奏曲ではなく)。
10点の作品を円形に展示しています。
 
1点目は「海の幸」そのものに変装して潜り込んだ作品。タイトルは「假象の創造」、青木繁の著作と同じタイトルです。
 
 
2点目以降も全て日本人作家の著作からタイトルを引用しています。
  • M式「海の幸」第1番:假象の創造
  • M式「海の幸」第2番:それから
  • M式「海の幸」第3番:パノラマ島綺譚
  • M式「海の幸」第4番:暗い絵
  • M式「海の幸」第5番:復活の日1
  • M式「海の幸」第6番:われらの時代
  • M式「海の幸」第7番:復活の日2
  • M式「海の幸」第8番:モードの迷宮
  • M式「海の幸」第9番:たそがれに還る
  • M式「海の幸」第10番:豊穣の海
それぞれの作品の時代、内容に基づいたイメージを登場人物はすべて森村泰昌が変装して作り上げています。
 
2点目から8点目までは日本の近代から現代の様子です。青木繁が生きていればこのような「海の幸」を描くのでは?(と私は思いませんが。)
 
9点目「たそがれに還る」は遠い未来、海辺に白衣の男女。ガスマスクを被った同じ男女も描かれており文明の終焉を匂わせています。
 
10点目「豊穣の海」は9点目と同じ海辺に脱ぎ捨てられた白衣とガスマスク。土偶の仮面を被る男が手にモリを持ち水平線海から朝日が登る。
モリの先の左手には1点目の「海の幸」が展示されています。
 
 
海から始まり、海に終わる。そして再び海から始まる無限のサイクルとなっています。
 
ここまで創り上げれば「海の幸」から離れた全く新しい作品でしょう。
 
そして、第4章の映像作品では、青木繁に変装した森村泰昌が青木繁にまるで見てきたかのように彼の人生について語ります。
 
身をもって青木繁に肉迫したからこそ実感をもって語れるところもあるでしょうが、そこは森村泰昌。彼の嗜好が強く主張されている部分もあり、納得できることとそうでないことがあります。共感できるのは
 
粗野に見えて計算高く、 
大胆に見えて繊細、
未成熟の才能。
 
28年の生涯は短か過ぎた。
 
ということでしょうか。
 
いずれにしても、
2人のアーティストの一対一の一騎打ちを通して其々の個性に観る者も入り込むことができる、そんな展覧会でした。
 
 
 

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