MOTアニュアル2020 清水陽子 の作品を見ながら現代アートとのつきあい方を考える(1)
の続きです。
アートって何だろう?
どこまでがアートだろう。
以前、落合陽一の展覧会のコラムでも記したように、現代美術では表現メディアそのものから創作するというアプローチが存在する。
例えば、植物の葉に絵を描く PHOTOSYNTHEGRAPH という技術は、言わば新しい絵の具と紙を創り出したことになる。葉にプリントされた「真珠の耳飾りの少女」や「モナリザ」が名作を生み出す可能性がある技術であることは示したとして、誰がその名作を創るのだろうか。
例えば、映画カメラが発明された当時、新しい体験と驚きはあっただろうが作品と呼べる映像が作れた訳ではない、ライト兄弟の飛行機は偉大な発明だが、初めは大空を自由に飛ぶことはまだできなかった。
新しく誕生したメディアが人の心を動かす作品を生み出すものに進化するまでには、更なる研究開発とそのメディアを知り使いこなして、新しい表現を追求する才能を持つ者の登場が不可欠だ。
楽器はあるが曲がない、曲を奏でる演者がいない。ピアノは鍵盤に指を落とすだけで素敵な音がでる。しかし、その音を作品とは呼ばない。ピアノを芸術作品とは呼ばない。
メディアアート、サイエンスアートは可能性の提示までで終わる作品もあり、そこで得られる感動は名画を観て得る感動とは種類が違う。単なる原理モデルではなく、それを実現する科学や背景となる文化、更には工程もアートですという主張も理解はするが、それならアートに求めるものが違うということになる。
実際見ていて、面白いこと考えるなあ、こんな事が実現できるのか、というのが正直な感想で退屈
している訳では無いし、可能性を切り拓くこと価値は理解している。
できるものならやっている、ここまで実現するのも一朝一夕では行かないのに苦労も知らず勝手なことを言うな、というのであれば、浅学菲才の人間が勝手なことを言って不愉快な思いをさせ申し訳ないとも思う。
私に先見の明がないのであって、これが進化の先の未来のスタンダードかもしれない。だとするなら、清水陽子のレベルには及ぶ筈もないが、精進を重ねて、新たな世界が見えるまで学びを続けるしかない。
現代アートとつきあうのは、楽ではない。