そしてここ数年、よく待ち合わせに遅れるようになったことに気付いた。
以前の私は定規で描いたロボットのようで、周りの人達は堅苦しさを感じたことだろう。
たとえば古い話だが、学校の席替えがくじ引きで決められていたことがあった。
でも、仲良し同志が近くになれるように、席の番号を裏で取り引きするのが普通だった。
「○○さんが代わってくれるって」とわざわざ取り引きしてきてくれた友達に、
「私、そういうの嫌いだから」と言い捨てて席を立った。あとで謝られた。
本当は友達と近い席がよかったのだが、一度不正をしてしまうと、
ズルズルと続けてしまって戻れなくなりそうな、自分の弱さの裏返しだった。
人に対して支配的で、口うるさい母親と頑固な父親の二役が、私の中にあった。
自分に対しては厳しいというより、よく責めた。
妬みから発せられた皮肉にとらわれ、弱気になるとそれが正しかったように思えて、
2年間近くもその言葉の呪縛から逃れられなかった。
「こうするべき」「こうあるべき」で理論武装していたのは、ある種の手抜きだ。
相手を言い負かすのにも使ったが、自分の不安を落ち着かせるため、
自分に言い訳するために使っていたことの方が多かった気がする。
そんなことで、何を抑えつけようとしていたのか。何を恐れていたのか。
まだ完全ではないが、「べき」を少しずつ手放すことで、私は楽に呼吸が出来るようになった。
その結果がこのていたらくである。このへろへろの私である。
遅刻する。サボる。よく忘れる。
煙草は去年の初夏から一年間くらい吸ってたし(また吸わなくなった)、
パチンコも先月、ふとやってしまって、大負けした。
でも、楽しいって思った。もう依存ではなくなったのかもしれない。
自分を大事にするとは、立派であろうとすることとは違う。
自分に耳を傾けることだ。自分を許すことだ。
楽になることは堕落ではない。
握り締めた掌を開くと、何かが逃げる代わりに、その先に光明が見えたりもする。
頑なに縮こまって身を守っていることより、案外勇気のいることなのかもしれない。
まだまだ私には、自分を抑圧するために力が抜けない部分がある。
でも、そういうことが自覚出来るところまで、ようやく辿り着いた。
もうロボットには戻りたくない。二度と。