また昔の具合の悪さが戻ってきたようだった。胸が詰まって、押し潰されそうなその胸のうちが、すがるような気持ちで安らぎを、本当に求めた。今日、ジブリ作品『借り暮らしのアリエッティ』を観たのに、作品はとても素敵で好きになれたのに、私だけ置き去りにされたような鈍い苦しみだけが残った。

 そして、ついにご飯すらろくに食べられないような状況で、・・・昔の死の淵から救ってくれた物語を、思い出した。はっと思い出した。

 よく知られている物語だ。『ぶきようだけど』というWEB絵本だ。

 …感想なんてない。いっぱい泣いた。生まれて初めて、感動して涙を流すということの意味を知った作品でもある。運命も、宿命も、意味なんて分からなくて、只々悲しくて、真夜中の公園で一人わんわん泣いた19の夜…。そんな日がそよ風に乗って戻ってきたようで、そしてそれを乗り越えてみせた日々の中で、またこうして倒れそうなときがあって、ピンクのゆきだるまに、また今日、出逢った。

 助かった。

 本当にいっぱい泣いた。

 …なんとか生きてる。

 自分の心がこの体に借りぐらしなら、いずれ、引っ越す日まで、今は大事にしたい。。。



 しかし、たとえそうであったとしても、私は幸せであるのだ。

 それはまるで、妾が今時分の梅雨の湿り気のように纏わりついて、しかし私にではなく、より傍にいた人の首に腕をかけ、優越と色を横目にしてこちらによこすような、取られるという喪失感である。空が灰色に染まり、鉛が純情に寄せたような淡さが美しい空色に、私は一人密やかな喜びを得る。そしてこうして、今ではタイプと電子に文字を任せることができるほど、幸せという余裕がある。 

 薄くひらひらと積み重なるような不仕合わせの束は、きちんと心持穏やかにこの胸にとどめている。それはいつも、タイトルのとおりである。長々と文字を書けなくなって、私は静かに、対象すべてにその解決策を探したが、とりわけ自身の豊かさがそれを消し去っているとは夢にも思わなかった。

 しかし、不幸の中に生きる術も、割に合わないものだ。かつての夏目漱石曰く、とかくこの世は住みにくい。だが世間はいい。問題はこちらだ。ただ一人部屋で黙々と幸せとそうでないもののバランスをとるための平均台を心に携えて、あれよあれよと月日の流れるうちは、梅雨も明けまいて。

 ああもう!

 ならぬ堪忍するが堪忍。

 いやいや、嫌々ではない。下らないジョークが、今はこころが座るソファーだ。



今まで、答えを見つけるためにはどうしたらいいか、探してみたりもしたが、今また四半世紀の到達点に来たようだ。
私の先には、挫折ではない何かがある。生きているうちには辿り着けないという個人の観念だが、本当に必要な結論がでない人生という形や過程があるのかも知れない。嘆きではなく、その場面に遭遇するであろう仮定なら、始まりと終わりを知覚していない私たちの一環の流れが、気軽に察知できる。挫折ではない何かとは、答えがでないことは否定ではないという部分を掘り下げると、先へ進めるかもしれない。