摂食障害・アルコール依存症にかかってます、わたくし。
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ちょっとお休み

皆様こんばんは。今日は一日中雨でした。家で仕事をしているわたくしとしては、湿気があってよろしい、という状況でしたが、たまのお休みの日にどこかへお出かけしていらっしゃった方には、大変だったことと思います。皆様の日曜日はどのように過ぎてゆきましたか。


事情があり、実家へ戻ることとなりました。4.5日更新できませんが、今後とも御ひいきくださいませ。


それでは皆様、良い夢を。


塔子拝


二度目の入院

皆様こんばんは。塔子でございます。今日はとても寒い一日でした。いかがお過ごしでしたか。

室内で温まっていた方にも、寒空の下、お仕事なさっていた方にも、良い一日でありましたか。

わたくしは一人、お芝居を観にてくてくと歩いておりました。とても寒うございました。まぁ、遊びですから、文句は言えません。


二度目の入院はすんなりと運びました。たまたまベッドが空いていたので、その当日に入院出来たのです。

今度も、予定は3ヶ月の監禁生活です。

お酒も前日から抜いておきました。これも大変な苦痛でしたが、これで治るのだから、と自分を叱咤激励しつつ頑張りました。

わたくしは過食症なので、前日には過食をしてアルコールのない苦痛を耐えました。これが、人によって異性だったり、ギャンブルだったり、薬だったりするのでしょう。もともとわたくしは太りたくない、しらふでいたくないという理由で、ア症に傾いた人間ですので、過食をしていれば、また、一日くらいなら、酒がなくてもなんとかしのげました。ですが、これは大変でした。本当に大変でした。

こんな思いをするなら、酒を飲んだ方がましだと言うくらいに。

また団体生活が始まりました。一人でいることが好きなわたくしには、「団体生活」そのものに慣れるのに、時間がかかりました。前回と同じ面子ではないことに安堵し、なるべく皆から嫌われないよう、気をつけたつもりでございます。検査・治療は前回と同様、点滴チューブをぶら下げて歩き、様々な検査を致しました。


プライバシーの問題で、ここでは詳しく書けませんが、本当に同じようなタイプの人間(依存的なヒト)が揃っておりました。勿論、いわゆる「まとも」な方々もいらっしゃいました。それでも、何かに依存しているということには変わりはなく、院内恋愛に発展する行動を取る方もおりました。

院内恋愛が発覚した場合、強制的に退院させられます。皆の治療に悪影響を及ぼすからでございます。当事者にとっても、これは治療の妨げになります。このような理由で強制退院になるという例は、よくあることなのだそうです。入院中耳に入りました。


そして、病院という隔離された場所ではしばしば見られる現象がありました。それは「噂」です。

最初は3ヶ月入院としていても、「罰」を受けるとそれ以上の入院になるかもしれない、といったもの。

これを初めて聞いた時には、もうここから一生出られないのではないか、という妄想に取り付かれました。

結果わたくしは2ヶ月の入院でア症治療に一旦成功したので、事実無根だと分かったわけですが、それまでは、なんとかヘマをしないように、静かに暮らしていかなければ、と恐怖を感じました。それはもう、怖くて怖くてたまりませんでした。


また、病棟内での差別もありました。薬中毒、統合失調症、ア症、摂食障害のなかでは、ア症が一番格好いい、という馬鹿げたものです。中毒者同士がいがみあっている、見下す、などの現象もありました。

勿論、入院患者様方の色にもよります。わたくしは4回入院しましたが、最後の3回目.4回目は皆が仲良く病気と闘っておりました(3.4回目の入院は、拒食症になってしまったからでございます。)。

看護士さまに相談し、それは妄想よ、とのお言葉にすがって暮らしておりました。世間でも差別されて、病院でも差別されるなど、真っ平でございました。


わたくしがお酒を止め、病棟内でも過食をしないでいられたのは、夫の訪問、電話での連絡という手段があったからでございます。


それは、また次の日に書きます。


皆様、良い夢を。


塔子拝

実家へ・そして自宅へ

皆様こんばんは。塔子でございます。今日も暖かく、過ごしやすい天候でしたね。太陽は顔をのぞかせないものの、気持ちのよい一日となりました。皆様いかがお過ごしでしたか。


一度目の入院からすぐ、わたくしは実家へ戻っておりました。その頃、夫への不信感が高まっていたからでございます。当時の偏ったわたくしの目には、夫が頼りなく見えたのです。そして、実家、父と母がいる場所へと参りました。


すぐに母は病院を探し、ア症の治療をするところへわたくしを連れてゆきました。わたしを問診し、お医者様はこう言いました。「あなた、本当にアルコールを治す気あるの?」と。その時のわたしのスタイルは、頭から足元までとても派手で、とてもア症を治そうとして苦悶する病人には見えませんでした。当然です。辞める気がなかったのですから。

形式的にお薬を頂いて、再来の予約は入れませんでした。


両親はわたくしが隠れてお酒を飲んでいることに気付いていましたが、それについては何も言いませんでした。ただ、ただ、疲労していたようでございます。


その当時のことを、わたくしはあまりよく思い出す事が出来ません。随分暴れ、物をめちゃくちゃに壊して、母に罵りの言葉を投げつけたことだけは、うっすらと覚えています。どういった経緯で自宅へ帰ることになったのかが、どうしても思い出せないのです。


お酒の量が入院前と同じくらいになった頃、わたくしは自殺未遂を起こしました。薬を大量に飲んだのです。(これは後述しますが、自殺未遂は、ある時までずっと起こしておりました。)しかも何度も何度も。

多分、これは推測なのですが、両親はわたくしを扱いかねて、自宅へと戻したのだと思います。

夫へバトンタッチした、というそれだけのことでしょう。


一時も酒を手放せないまま、わたくしは新幹線に乗りました。

わたくしは、焼酎をペットボトルに入れて、いつでも飲めるように携帯しておりました。酒を飲んでいる時の自分が、本当の自分なのだと、自分に言い聞かせて。


夫のもとへ帰ってからも、自殺未遂を何度も起こしました。そして酒量は入院前より少し増えておりました。大体焼酎900ミリリットルくらいでしょうか。

また以前にも増して、奇矯な行動、暴力行動を起こし、ついには警察の方に介入されるような状態になったのでございます。その頃には、夫とわたくしは愛し合うようになっていたので、離婚は考えませんでした。夫は「命をかけて治してやる」と、涙目で言ってくれました。ですが、わたくしの病気は一向によくなりませんでした。


退院後二ヶ月たった頃、なんの拍子にか、アルコールを止めようと思い立ちました。その時のわたくしの手首には、カッターで切った筋が何本もあり、大量に薬を飲むたびに胃洗浄をされるため、喉はいつも炎症をおこしておりました。

きっかけがなんだったのか、今でもわたくしには分かりません。夫への愛だけではございません。

ただ、このままではいけない、という使命感にも似たような思いを抱いたのでございます。


そして、ア症治療が失敗に終わった、某アルコールセンターにてこれを克服しなければならない、とも思いました。再度の挑戦です。死んだつもりになって、やってみようと。


二度目の入院は平成14年5月からでございました。

ここからがわたくしの再スタート地点でした。


それでは皆様、良い夢を。


塔子拝


退院 そしてまたもアルコールの毎日

皆様、こんにちは。お元気でしょうか。元気な方も元気ではない方も、今日の一日をしっかり生きてゆければ良いものです。ちなみにわたしは、風邪気味でございます。


入院中、わたくしに処方される薬については、お医者様も慎重でした。とにかく、苦しい苦しいとだけ訴えるわたくしに、合う薬はなかなかなかったのです。断酒して3年7ヶ月になる今でこそやっと、薬が安定してきましたが、その前には、大変な試行錯誤がありました。減らしたり増やしたり。


そのなかで、一番わたくしにあっていると思われる薬に出会う事が出来ました。それはリスパダールとバルネチールです。今でも処方されています。


アルコール依存症(ア症)治療で、酒を絶ったときにまず出ました症状は、被害妄想です。皆がわたくしの悪口を言っている、という思いで凝り固まっておりました。

(勿論リスパダールが効いていても、調子の悪い時には、効かない、と感じる時もあります。)


一度目の入院は正直に申しまして、失敗でした。

あまりにも辛すぎて、それは治療と人間関係の両方で辛かったのですが、「院外外出」の際、脱走しました。夫を呼び出し、外出からそのまま家に帰ってしまったのです。そして、早朝に抗酒剤を飲んでいたにも拘らず、チューハイの2杯飲みを致しました。

結果、吐き気、悪寒で苦しくて、苦しくて、失神致しました。


わたしが気がついたのは、夫の車の中。「これからどうする」と聞くので、「病院に帰る」と申しました。その時点では、飲酒なんかもうこりごりだと思ったからでございます。


病院に戻ると、監獄(がっちゃん部屋と呼ばれておりました)に一晩入れられました(アルコールを完全に抜くためでございます)。固い床、同じ部屋にトイレがあり、もよおす度に看護室に繋がっているボタンを押し、「水を流してください」と頼み、水を流していただきました。昼頃になり、お医者様がやってきて、反省しているかどうかを訊ねました。わたくしは勿論、反省しました、と答えました。当然です。


そして、ようやく監獄を出て、病室に戻る事が出来ました。


当初、入院は3ヶ月と言われておりましたが、その3ヶ月をどうしてもやりきれず、その後まもなく、わたくしは自主退院を致しました。任意入院ですので、申告すれば、ちょっとは面倒なことにはなりますが、自主退院が出来るのです。誰とも仲良くなれず、一人ぼっちのわたくしを見送ってくれる奇特な人間は、勿論一人としていませんでした。


そして、当然のように、アルコールにどっぷり浸かる生活に逆戻りしました。

そのときは実家に帰っていたのですが、それは次にでも書きます。


それでは皆様、このへんで。今日も良い一日でありますよう。

塔子拝


某アルコールセンターでのこと・一度目の入院・長文

皆様、おはようございます。塔子は何故か柄にもなく早起きをしております。とは言っても、あくまでもわたくしにとっては、ということでございます。今日お休みの皆様は、もう起きられておりますか。それとも安眠の最中でしょうか。


平成14年1月、某アルコールセンターに入院いたしました。体重35キログラム、血圧上が65、下が40、栄養失調で顔が異常にむくんでおります状態でございました。


某アルコールセンターに入院する際、入院当日にはアルコールを身体から抜いておくことが必要でした。そうでないと入院を拒否されるのです。

それがわたくしにとって、最初の難題でした。前日は気も狂うとはこのことか、という思いを致しました。

身体症状としてまず、手が震える、集中できない、奇声を発するなどが現れました。精神症状としては、異常に酒が欲しくなる、悪魔や化け物に襲われるような幻覚を見る、など、とてもとても苦しい状態でございました。入院のために衣服や持ち物に名前を書くのですが、この作業だけに3時間弱もかかりました。


当日、呼気の検査をし、アルコールが入ってないことを確認すると、病棟に案内されました。そこは古びた、しかしそこそこ小奇麗なところでございました。そこはロビーと呼ばれる食堂を兼ねた室内、タバコを吸える場所も隅にありました。またテレビもありました。


部屋は4名~6名の相部屋で、当時はカーテンなどの仕切りもなく、プライベートというものはありませんでした。個室と呼ばれる部屋も2名部屋でした。


外出には院内散歩と院外散歩の二種類がございました。「院内散歩」とは、某アルコールセンターの敷地内であれば病棟から外に出られるというもの。「院外散歩」とは、外出時前に申請書に記入し、本当の「外出」が出来るというものでした。どちらにせよ外出が出来るのは、任意入院(わたくしは任意でした)の場合でした。任意でも外出出来ない方もいらっしゃったのかどうかは、わたくしには分かりません。あまり患者さま同士で詮索をするのは、嫌だったからでございます。


院内散歩では売店に行くことも可能でした。病棟から出て少々歩いた棟に、お菓子や日用品を置いてある売店があったのですが、食べること以外楽しみのない病院の特色が良く出ていて、お菓子が異様に沢山ありました。わたくしはタバコを買いに行くたびに、ああ、あのお菓子が食べたい、と強い思いを募らせたものです。過食症も併発しておりましたから、買うことはできませんでしたが。


病棟では、携帯電話の使用も可能でした。ただ、アダプタでの充電が出来ないので、乾電池での充電をしておりました。そして、これがすぐに電池がきれてしまうのです。乾電池が何本あっても足りない状況でした。途中で根負けして、普通電話のコレクトコールで、夫へ連絡を取っておりました。入院費もかかりましたが、連絡費もバカに出来ない額でございました。



入院患者さまとの最初の接触は食事時でございました。手が震えて箸がうまく使えないわたくしに親切にも「何か分からないことがあったら、なんでも言ってね。教えてあげるから」と、綺麗なおねえさんが声を掛けてくださったのです。今でもその時のことははっきりと覚えております。他のことは酒がないせいで苦しく、あまり覚えていないにも拘らず。


入院してから10日間、身体からアルコールを抜くための点滴をしておりました。人によっては一週間ですむ場合もあるそうでした。そのときは、自宅以外の場所に監禁されているという思いが強く(勿論、それは監禁そのものでありました)、お酒を飲みたいという欲求は静まっておりました。


検査をたくさん致しました。胃カメラ、脳波、採血、レントゲン、MRIなどの検査です。もっとあったような気もするのですが、忘れてしまいました。検査自体は特に苦しくはなく、退屈で窮屈な病棟を抜け出せるため、むしろ楽しかった記憶があります。


入院時、一番むつかしかったことは、他の入院患者様とのコミュニケーションでした。それでなくとも人と接することが苦手なわたくしには、苦痛でした。今までのわたくしの人間関係は「男と女」の関係「マンツーマン」以外なかったわけですから。毎朝毎晩大勢の患者様と顔をつき合わせていましたので、息もつまるはずでございます。


そうこうしているうちに、わたくしは「皆がわたしをバカにしている。嫌っている」という被害妄想に取り付かれるようになってゆきました。主治医に相談してもはぐらかされるばかりで(今思えばはぐらかしていたのではなく、それも治療の一環だったのだと分かります)、なんの解決にもなりませんでした。

そして、リスパダールという薬を処方されました。

これは効きました。少なくともわたくしにとっては。


それでは皆様、今日も良い一日をお過ごしください。心より願っております。

塔子拝


入院のきっかけ

皆様こんにちは。塔子でございます。今日はとても暖かく、心も身体も軽くなっております。皆様は、お仕事に家事、育児、介護にと、様々なお過ごし方をされていることでしょう。東北地方には、まだ雪が残っているかと思います。雪溶けにお気をつけて下さいませ。


ア症発症が分かったのは、たまたま背中が痛く、ある病院に行ったからでございます。その診察の時に「焼酎朝から800ミリリットル飲んでます」と申告したところ、すぐにでも某アルコールセンターに入院しなさいと言われました。そしてお医者さまは、その場で紹介状を書いてくださいました。


これが入院の発端でございます。しかし、紹介状を書いていただいたにも拘らず、わたくしは某アルコールセンターへの受診をぐずぐずとためらっておりました。何故なら、念願のア症に罹り、体重も35kg.とやせていたからです。過食症にもかかっておりましたので、やせていることはわたくしにとって、とても嬉しいことだったのです。


この頃には、ちょっとしたことで夫に暴力をふるったり、物を壊したり、突然大声をあげたり、とても正常とは言えない状態になっておりました。

また、祖父母の病気が悪化し、実家と自宅を往復するようになってからは、酒を隠し持ち、祖父母の病院でこっそり飲酒したり、両親のいる状況の時にも飲むようになりました。両親は35kg.のわたくしを見ても、「ちょっとやせたんじゃない。」というのみで、わたくしの飲酒については何も言いませんでした。

やはり祖父母の介護に疲れきっていたのでしょう。両親は。


そして、祖父が亡くなり、祖母が亡くなり、両親は一時空っぽの状態になったのだと思います。何も言わず、わたくしを自宅へと帰しました。


わたくしの飲酒はますますひどくなっておりました。


そして入院。これは心身ともに疲れておりました、わたくしにとって、まさに生き死にをかけた勝負でございました。


まず最初の面接の際、「あなた死にますよ」と言われました。そして、回復する見込みは全体の「四分の一が死んで、あと半分が死にかけで、残りの四分の一しか生き残れませんよ」とのことでした。

今思えば、その四分の一にかろうじてもぐりこめた訳ですが、後で聞いた話しによると、「あなたは死ぬと思ってた」だったそうです。

そのくらい摂食障害とア症を合併している人達の治療はむつかしいということです。


摂食障害と思われる方で、異常な量のアルコールをお飲みになっていらっしゃる方、おりましたら、すぐに病院に行ってください。特にアルコールで痩せている方は危険です。死にます

治療は早ければ早いほど、治る確率も高くなります。

摂食障害でも、歯が溶けるほど吐き癖のついている方も危険です。若いうちはよくてもいつか必ず後悔する日が来ます。実際にわたしは40歳の女性患者とお付き合いしております。とても痛々しくて、胸が苦しくなります。


どうか、「わたしの食べ方は異常だ。飲み方は変だ」と思われたのなら、病院で診察を受けてください。杞憂で終わればそれでよいのです。忙しい方も、時間を作って、診察されてくださいませ。


それでは。皆様、今日も良い一日を。

塔子拝


男性依存からア症へ

バレンタインディを間近に控え、そわそわなさってる貴方、贈る側ですか、贈られる側ですか。なににせよ、幸せそうな方々を見ることは、わたくしの人生の喜びの一つでございます。

わたくしは今でこそ人と自分を比べるということをしなくなりましたが、以前は全身これ嫉妬で出来ているのではないか、というくらい、自分を卑下しておりました。太っているからダメ、ブスだからダメ、人と普通に会話が出来ないからダメ、などなど。比べて、あの子はなんて素敵なんだろう、自分でなくて悔しいと思い続けておりました。

ですからいつも人のものばかり欲しくて、自分やそのまわりにある事柄、人を大事にしませんでした。こんなわたしが持っているものだから、こんなわたしが築いている人間関係だから、と。


その結果、友人は一人もいなくなり、ただ身体だけのお付き合いをしていた男性方との交流だけが残りました。今思えばとても惨めな状態でございます。それでもその当時は、それで良かったのです。男性が身体を欲してくれるということが、自分のアイデンティティの全てでした。


夫と知り合ったのは、今から12年前でした。夫とも最初は援○交際で知り合ったのですが、お互い気が合い、同棲するようになりました。それからでございます。本当の地獄に落ちたのは。


生きていて、人に甘えることが全く出来なかったわたくしが、夫に依存するようになったのです。それまでの依存は過食、男性との接触でしたが、今度は依存の対象がひとつに(正確に言うと2つ、過食も)なったのです。これは想像以上に当事者にとって、キツイものでした。夫は仕事をしなければいけません。しかしわたくしは昼も夜も夫を必要としていました。


そして一回目の自殺未遂を起こしました。ほとんど人生を諦めかけていたわたくしの、ただひとつの望みが一人の男性、となったとき、病院からいただいていた薬を大量に飲んだのです。これは今まで冷たかった両親、そして寝る暇もないほど疲れきった夫の気をひくことに、成功しました。まさに望んだ通り、ちやほやされました。そして、それに味をしめて、何度も何度も何度も「自殺未遂」未遂を起こました。


いくら他人様に「身体に良くないから止めなさい」と言われても、人に心配される、という快感を味わいたくて、自傷行為を止めませんでした。

そうですのに、何をしても心は満たされず、お酒の量が増え、毎日朝から飲み始めるようになったのでございます。


そんな中、祖父母の病気が急に悪くなり、わたくしは自宅と実家を往復する日々を過ごすことになりました。

どんどんと酒量が増えてきた頃でございます。


わたくしは、ア症になりたくてなったのです。いつの間にかア症になったわけではありません。両親を傷つけるためだけに、お酒を飲んでおりました。

もしかしたら、そのようにお思いになっている方もおられるかもしれません。

断言いたします。


ア症を治すのは、並大抵のことではありません。復讐が目的の飲酒は絶対に止めてください。

脳の萎縮が起こり、場合によっては社会に復帰できなくなる恐れがあります。

また、ア症にかかってしまった人間は、一生飲酒できなくなるのです。大好きな人と好きなお酒を楽しもうとしても、死ぬまでその幸せを得ることは出来ないのです。


それでは、この辺で。

皆様良い夢を

塔子拝


嬉しゅうございます。

皆様、こんばんは。塔子でございます。

初の読者さんがついてくださいました。ありがとうございます。これからも、33歳らしい病気持ちとして、日記を書いてゆこうと思った次第です。本当にありがとうございます。言葉では言い表せないくらい嬉しゅうございます。


某アルコールセンター(久里浜)では、摂食障害、アルコール依存症(以下ア症と書きます)の治療については、プロの方々がいらっしゃいます。あまりにも遠いわけではなければ、是非、上記で苦しんでいらっしゃる方は、受診をお勧めいたします。ただ、ちまたの噂では、「薬漬けにされる」との声もありますので、その辺りは、皆様の治療方針と検討なさった方が良いかと。


短大に入学して2年生になった頃、やはり登校拒否になってしまいました。恩師のお陰で、休学をして、それから一年後輩の方々に囲まれて青春時代をすごしました。そのときは「自律神経失調症」として休学をしていたわけですが、事務の方がその手の病気にとても親身になってくださいましたので、休学、復学は割りにすんなりと運びました。


ただ、その休学中に男性依存がひどくなり、風俗嬢、愛人、セックスフレンドとして何も考えず、ただ食べることと男性のことだけを考えて暮らしておりました。勿論、家事、入浴も出来ず、ある意味人間失格でございました。一日おきにホテルでシャワーを浴びる生活が続きました。。両親からはすでにわたくしはいないものとして、連絡すら来ませんでした。


複数の男性と関係をもちましたので、性病にかかりました。クラミジアです。あまり自覚症状がないので、初期にはわかりません。複数の男性と関係している方は、性病の検査、HIVの検査を受けてください。信頼ある医師に相談するのが一番ですが、あまり近くの病院ですと行きにくいと思いますので、なるたけ大学病院に行くことをお勧めします。HIVは近くの保健所で検査してくれます。一番大事な彼と一緒に検査してください。


男性依存になる方には、男の人に包まれたいという気持ちがあるのかもしれません。こればかりはケース・バイ・ケースですので一概には言えませんが、求められるとサービスをしてしまう、ということが多いかと思います。男性に求められても断れるのであれば、男性依存にはならないかと。


わたくしの場合には、父が厳格で職種の割りに酒乱でした。だから、というわけでもないのでしょうが、わたくしが愛人に求めることは、頭ごなしに怒らない(叱られる、ではなく)、父の代わりに包容力がある、ことでした。12年関係が続いている夫はまさに怒らない、温和、酒を飲まない、という57歳のおじさんです。


短大時代では、たち○ぼなどでエンゲル係数を低くすることに必死でした。


ある日、テレクラで知り合った生命保険会社の男性に保険の勧誘の仕事を斡旋していただきました。

それから、どんどんと過食症がひどくなったのですが、それは後日に。


声を大にして申します。

困ったときは御両親に罵倒されようがどんな仕打ちを受けるか分かりませんが、一度腹を割って、お話することが、回復への第一歩です。子供が可愛くない親はいません。(たまに例外もありますが・・・。)今感じていること、もがいている最中だということ、社会に適応できないこと、などを正直に話すことです。摂食障害の方には、自分でなんとかしなければ、という気持ちが普通の人より強いことと思います。強がらず、SOSを出すことです。大事な彼がいる場合は、その男性に全てを話すことも良いでしょう。


ただ、複数の男性と関係したことがある、という部分だけははしょってください。


今回内容がなくて申し訳ありません。

皆様、今晩もよい夢を。

塔子拝


男性依存

わたくしの男性依存は、物心つく前から始まっていたようです。幼少の頃の写真を見ても、必ず隣に男の子がおりました。ですが、中学生になり、高校2年まではその依存はなりを潜めておりました。それが再燃したのは、先日書いたとおり、共学高校に転入してからでございます。「男性にモテなければ、女である意味、人間である意味がない」という妄想に取りつかれたのです。テレクラに電話をかけ、わたくしに危害、脅威を与えなさそうな60歳代の男性ばかりに狙いをつけ、過食代を頂いておりました。その時すでに自分の小遣いでは、過食代をまかなえなくなっていたのでございます。


何故か短大に合格し、一人暮らしを始めました。その当時のわたしの状態をみて、よく両親が一人暮らしをさせたものだと思いますが、その当時は家族の間でわたくしはお荷物であり、扱いたくないゴミだったのでしょう。


その頃には男性の方々とはすっぱりきれておりましたが、性懲りもなく、また新しい関係を築くのに、時間はかかりませんでした。常時わたしのマンションには違う男の方が通っておりました。その時の彼らも50~60歳代の方々、歳の近い方とは恐くてつきあえませんでした。男性の側からしても、わたくしはあまり魅力的な女性ではなかったことと思います。


わたくしはとことん悪運が強いのか、一度も妊娠だけはしたことはありませんでした。その代わり、たくさんの病気を経験しました。しかし、これも悪運の強さのなせる業、HIVにだけはかかりませんでした。

ここで、依存症の女性へ、伝えたい事があります。男性と関係するのは簡単です。ですが、どうか、コンドームだけはつけて事に及んでください。病気、妊娠、どちらも防いでくれます、ある程度は。

オーラルセックスは病気をもらう可能性が高いです。これも出来ることなら、長いお付き合いの方とのみ、なさってください。不特定多数の男性と関係している方に、特に覚えておいて欲しいことです。


他人様に向かってはどんな立派なことも言えますが、わたくしの当時の生活は本当に荒れておりました。喧嘩、男性とのトラブル、性病、過食、突然気が狂ったように恐くなる、など。一ヶ月に一回は必ず40度の熱を出してもおりました。とても人様に見せられない、メス豚でございました。


それでは皆様、今晩も良い夢を。

塔子拝

過食しちゃいました。

 過食症は良くなってきたと思った矢先、またも過食をしてしまいました。内容は御想像にお任せ致しますが、普通の方々の感覚で言えば、「気持ち悪くなる」くらいの量でございました。そして、昨日一日、ずっと眠っておりました。夫が心配して、2.3時間置きに脈を計ってくれたそうです。おきたのは今日の昼過ぎ、汗びっしょりで、布団が重くなっておりました。


 過食症を発症したのは高校2年生の時。理由はなんてことない、父の転勤に伴い、学校が変わったからでございます。それまでは女子校の進学校、転学先は自由な校風が売りの共学校でした。突然、異性に囲まれて頭がパニックになり、容姿に異様なコンプレックスを抱えることとなりました。

 それまで、ダイエットや自分の容姿など気にも留めなかったわたくし。そのコンプレックスに押しつぶされそうになって取った行動が、複数の男性とのおつきあい(60歳代の方々)、過食、でございます。

 吐かないタイプの過食なので、どんどんと体重は増えてゆき、最後の方では65キロにもなりました。そして、男性とのおつきあいにも依存するようになってまいりました。勿論その最中は学校には行きませんでした。

 両親には本当のことを言えないまま、どんどん太っていくことに不安を覚え始めた頃のある日、わたくしの理性が吹っ飛びました。キレたのです。


 その後は、信○病院と学校を往復する日々が続きました。その頃のことを、わたくし、あまり覚えておりません。どういった理由で学校に行き始めたのか、病院に通っていたのか、また男性たちとどうやって別れたのか、など等。無理なダイエットをし、55キロくらいの体重でいたことだけを覚えております。

 しかし、過食は一向に良くならず、高校を卒業した後もずっと、今日まで続きました。


 過食に依存し、男性に依存し、クスリに依存し、自傷行為に依存し、最後にはアルコールに依存するようになるまでには、少しの時間がありました。


 それでは、また。

 今晩も良い夢を。塔子拝