村上春樹が登場して以降、文学と言うものは何処かへ消え去ってしまったという。多くの批評家達が著作の中でそう述べている。文学は死んだんだそうだ。
 その「以降」の世界しか知らない人間としては、文学が何様なんだと腹立たしく思う。鴎外や漱石の様に格調高くはないかもしれないが、名作は今も生まれ続けているし、文学殿がいなくなったからと言って読書から離れられるなら誰も苦労しまい。

 文学は衰退のいっとをたどっているようだが、双方向のメディア、たとえばインターネットがめざましい普及を遂げている現在でも、小説を書く人間は減らない。むしろ増えているといっていい。書店には小説家になるための手引書が置かれ、新聞には広告が載る。「貴方の本を作りませんか」。
 実際、ホームページやブログという手段を手にした現代人は、こぞって「個人」の発信につとめている。小説は、多かれ少なかれ自らの体験が反映されるものだ。日々の出来事を日記に書くようなあからさまな「公開」ではないにしろ、小説を書いて発表することは、自分の感情のうごきや仕組みを晒すことである。
 
 小説は個人的なものだ。ルポルタージュやノンフィクションでない限り。恋愛モノだろうが推理モノだろうが、作者個人の脳内で繰り広げられたウソの世界をつづったものである。閉鎖的で、一方的なもの。
 そういう意味で、小説もとい小説を書くことは、インターネットをすることと対極にある。ネットは他者との交流が前提にある。人以外にも、もの、時間、場所。相手はさまざまだ。

 人は自分がメディアへの参加を期待する一方で、唯一の発信者となる状況を求めている。意見者であると同時に発表者でありたいと願う。

 だがここが一番難しいところで、発表者に回ってしまうと他の意見者を受け入れることができなくなってしまうことがある。だれだってそうだ。批判に素直に耳を傾けられるはずがない。
 批評家のように書きなぐったり文豪のように小説をしたためたりして、それらを公開した人々は、もう意見者ではない。発表者の立場からものを見るようになる。数年前の週刊誌の見出しがこれをよく表現している。ワールドカップのさい、「なんちゃってセルジオ越後が居酒屋で大増殖の憂鬱」。

 閑話休題。
 つまるところ、発表者に回ると意見者なんてどうでもいいと思えてしまう。書きたいことを書かせろ。読みたくないなら読むな。
 かくして小説は個人的なものに終始する。

 ここに、双方向と言う利点を持ちながらいまだに読者参加型小説が日陰の立場に置かれていることの理由ある。わたしはそう考える。
 小説は、個人的なものであるからこそ小説でありうるのだ。中には自分でシナリオが変えられるものもあるが、それが主流になることはない。作者から読者への一方向的なものだからこそ発展し、今日まで残ってきた。
 ストーリーや構成に製作段階で他者が干渉し出したら、それはもはや小説ではなくなる。

 ここのところ、「開かれた」ナントカを作る動きが目立つ。だがそれで本当にいいのか?一方的なものだからこそ、品格や美点を保ってきたものもあるのではなかろうか。それを無理やり変えたところで、受け入れられるものかどうか。

 テレビはなくならない、と日枝会長は発言した。わたしもこれに賛成する。視聴者参加型番組が特番だけに多い現状を見よ。テレビがネット化すればもてはやされるかと言うと、そうでもない。

 堀江社長は韓国ドラマを例に挙げて、視聴者が流れを変えることが出来る番組を提案した。これを聞いたとき、「クレーマーには折れるのか」とがっかりした。
 そんなことをしていたら刺激的な展開ばかりが採用されて、つじつまがあわなくなるのは見え見えだ。
 波があれば面白いものが作れるのだろうか。本当にそうだろうか。

 かつて文壇は、私小説が外国から入ってきたことでおおいに混乱した。より刺激的な小説にしようと、私生活でとんでもないことをする作家まで現れた始末だ。
 けれども結局その動きは沈静化する。
 
 何かが流行ったとして、ではそれを他のものに流用すれば別のものもヒットするか。そうではないだろう。押し付けは本来の持ち味を駄目にする。
 それぞれのよさを生かす形で未来に繋がることを期待するばかりだ。