右翼は、好きなものを守るために他のものを壊す。
 左翼は、好きだからあえてそのものを壊す。

 生きるために切る、と言ってカッターを手首に向ける。本当は誰かにかまって欲しくて、大切にされたくて仕方ないのに。
 リストカットする人たちは、心底自分が好きなんだ。
 だけど彼らは自分を壊す。
 好きだからこそ、壊してしまう。
 自分の好きなものをあえて危険に晒すことにこそ、覚悟の大きさが現れる。たぶん彼らはそう信じている。

 そもそもそうやって壊すのはなぜかって、おたく色入り混じりがちな思考回路でもって、破壊の後にあるはずの再生を信じているから。
 切れば何か変わる気がする。
 でもそれはただの幻想で、一回切ると何回も切りたくなるだけ。
 深く深く切ることだけが目的になっていき、自分を戒めるためのものに見せかけた他人への凶器、もとい「痛み」も次第に意味をなくしていく。

 彼らは言う。
「リスカすることって何がおかしいの」
 手首から血ながしながらうろつかれたりしたら、普通はビビる。ところが彼らは「こうやって生きてるんだからいいじゃない。生きるためにやってるの」とこう返してくる。

 何がおかしいか。
 あげるとするなら、羞恥心の欠如。過剰すぎる自己顕示欲。

 こっそり切って、傷口は墓まで持っていく秘密のつもりで隠蔽しているのならまだいい。ところがところが、あえて処置もせずに出しっぱなしたりしている人もいる。
 当然ながら、人の傷口を見るのが好きな人ばかりではない。顰蹙を買うのも当然だ。

 現在進行形でリスカしている人とは何を話しても無駄だ。
 彼らはリスカを「当事者」と言う立場でしか語れない。
 リスカにはある種の開放感つまり爽快感と、たまらない快感がある。それを味わっているうちは駄目だ。
 刃物を置いて、傷を治して、皮膚に残ったジグザグ模様を心静かに眺められるようになるまでは。

 やっぱりリスカは痛い。手首に残った傷を見て、たまに思う。
 切ることで救われたことはある。あの時はそれが精一杯だった。でも今になって振り返ってみると、裂いたときに感じたのとは違う痛みがある。
 
 手首を切るより先に、不安を誰かに打ち明けるべきだった。
 いけなかったのは、他人に心のうちを暴露したら自分の何かが損なわれるんじゃないか、と思ってしまったこと。
 頼るべき人材を作れなかったこと。
 親との間に壁を感じていたこと。

 愛されたいなら愛されたいというべきだった。
 自分からは何も言わずに、そのくせ他人に理解されたがっていたころがつくづく恥ずかしい。
 もらうこと、奪うことしか知らなかった。
 今は分かる。この世界は循環していて、それはいろんなものが「交換」されているからなんだ。与えることで初めて手に出来るものもある。
 乞食のままじゃ誰も相手にしてくれない。

 リストカットは自分の悲劇の度合いを測るための手段に過ぎない。
 切るしかない自分は、哀れで惨めでかわいそう過ぎる。
 こういう風に自分を貶める行為にこそ快感があって、他人を叩かない代わりに自分を叩くというわけ。
 絶望で何もしたくない。夢も希望もない。そういうときに、他人を非難するときの、あの微妙な熱意が沸くことは大きい。
 目標が出来る。やる気が起きる。切ろう、と思う。
 だから切って自己批判する。
 これがあんまり行き過ぎると、叱る自分と叱られる自分という擬似多重人格に陥ってしまう。

 つまるところ、満足感を自分の中だけでぐるぐる回しているようなものだ。これがオナニーとどう違うって?
 リストカットの跡を見られることに恥ずかしさを覚える。
 どうにもならなかったんです、って言ってしまえばそれまでだけど、まさに自慰を家族に見られたときの言い訳みたい。

 リスカをする人はMだという説がある。
 これには反論したい。
 リストカットは自己の存在価値のゆらぎに対する自己批判で、同時に自己を確立させるための手段なのだ。単なる被虐趣味ではなくて、なんとなく高尚な思想とオンナノコの甘酸っぱさが交じり合った行為のことなんだ。

 自己批判の裏に潜む自分ラブな感情に素直に気が付ければいいと思う。
 
 だって誰だって愛されたいじゃない。
 できるなら一番穏やかで、一番安心できる方法で。
 多分それは刃物による愛撫じゃない。