「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようとする者は、一つの世界を破らなければならない。」

 

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』の中の有名な一節だ。

 

人生に例えれば、子どもから大人になる思春期に、誰でも通る葛藤の道でもある。

 

しかし、この卵の殻があまりに強固すぎて、殻を破ることに人生の多くの時間とエネルギーを使わなければならない人もいる。

 

それが、『血の轍』の主人公、静一。

(『血の轍』全17巻 押見修造 小学館)

 

濃密すぎる母親・静子との関係の中で、煮詰まり、もがき苦しむ物語は、母子共依存からの回復が一筋縄ではいかないということを、全17巻かけてひたすらリアルに表現している稀有な作品だ。

 

殻から抜け出ようとすればするほど、母の狂気は激しくなり、渦に飲み込まれ、蝕まれ、「ママ」と「僕」の心の境が曖昧になって、静一の狂気となっていく。「母子カプセル」の中で成長していくというのはなんと残酷なことだろう。

 

一方で、カプセルの中は狭くて身動きが取れず苦しいけれど、自分の意思を捨てさえすれば、実に心地よい温度が設定されているコンフォートゾーンで、まるで羊水の中に浮かんでいるかのような居心地の良さ。

 

時に、母と息子のうっとりとした甘美な世界が訪れる。

 

このような母子共依存が生まれる背景には、母親の心の病が関係していることが多い。うつ、双極性障害、統合失調症、PTSD・・・。

 

子どもは、不安定な母親をこれ以上刺激しないように自分を潜ませ、そんな母親の希望として生きるために人生を差し出す。

 

それは、小さな自分自身が生き延びるための生存戦略だけど、その中には母親をなんとか守ろうとする子どもからの愛もある。

 

もう一つ、父親の存在感の薄さ。

 

父性のエネルギーは、カプセルにくさびを入れる力を持つけれど、父もまたその力を使うことができない。

 

これはきっと、もっと大きな社会の構造の問題にもつながっていくのだろうと思う。

 

読み進めるのが苦しく、かといって途中でやめるのも苦しく、静一とともに希望を探しながら、結局一気に読んでしまった『血の轍』。

 

「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したに過ぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」

 

『デミアン』の冒頭の言葉の答えの一つが、この本の中にある。

 

 

師走になりました。

毎年、この時期になると気が重くなる方がいます。

 

お正月、実家に帰省するのがつらい。
「いつ帰ってくる?」と連絡が来るだけできつい。

そして帰ると体調不良になる。

 

・・・「母がしんどい」問題です。

 

心理相談室の記事を更新しました。↓

 

母からの「否定」と「愚痴」、その支配


よかったら、読んでみてください。

 

◎参考図書もアップしておきます。

 

『「自傷的自己愛」の精神分析』斎藤環(2022)角川新書


『家族と厄災』信田さよ子(2023)生きのびるブックス


『共依存ー苦しいけれど、離れられない[新装版]』信田さよ子(2023)朝日新聞出版  (※図書館で借りて写真撮り忘れ)


『母と娘はなぜこじれるのか』斎藤環✖田房永子,角田光代,萩尾望都,信田さよ子,水無田気流(2014)NHK出版


『「母」がいちばん危ない  ”いい”娘にならない方法』斎藤学,村山由佳(2013)大和書房


 

 

 

「なんで私が?」
「まさか私が!」

当事者になってはじめて気づく差別と偏見、
「当たり前にできる」ことの便利さ。

私の生きている社会は、心も体も健康な人、異性を愛する人が「普通(デフォルト)」として設計されている。

我がごとにならないと、見てはいるのに、見えていない世界がある。

盲点は、指摘されてはじめて、その存在を認識する。

 

『ハンチバック』市川沙央 (2023)文藝春秋


 

『ハンチバッグ』は、病気にせよ、障害にせよ、それぞれの当事者やそこに関わる人たちが、心のひだを震わせながら読んだのではないだろうか?

息を吸いたいのに入ってこない発作時の窒息の苦しみを、頭ではなく体が知っている人。

痰吸引や誤嚥性肺炎の大変さと、異性介助のどうしようもなさに介護の日常を重ね合わせる人。

「間違った設計図」で生きてきて、世の中全てが崩壊すればいいと願う人。

もう一方で、

 

そんな人の中にもあるマチズム(健常者優位主義)に気づかされ、世界がひっくり返る。紙の本の特権性のくだりは印象的。

 

どんな立場からも、そこから見える世界がある。

 

周縁に生きる当事者から発せられる言葉たちが、
社会の外に広がる空を垣間見せてくれる。


SNS時代に生きる私たちにとって、もはや実物の顔や生身の身体は重要ではなくなりつつある。他者とのコミュニケーションは、加工され、盛られた、記号としての自分=アバターで十分だ。

コロナがそれを加速させた。

ムーンショット計画は着々と進行中。

そんな、人間の営みから身体が失われている時代の中で、

小説の世界では、障害者の主体としての言葉で紡がれた作品が注目された。

 

心理療法の世界でも、身体志向のアプローチが取り入れられ始めている。

死がある限り、人間は身体をないことにすることはできず、排除しようとすればするほど、その裏返しとして生身の身体が立ち上がる。

身体の不調や不具合が、むしろ生きていることを実感させてくれるように、

体を張った生の言葉が、生きることの本質を再び問い直す。

リストカットのように。