「なんで私が?」
「まさか私が!」
当事者になってはじめて気づく差別と偏見、
「当たり前にできる」ことの便利さ。
私の生きている社会は、心も体も健康な人、異性を愛する人が「普通(デフォルト)」として設計されている。
我がごとにならないと、見てはいるのに、見えていない世界がある。
盲点は、指摘されてはじめて、その存在を認識する。
『ハンチバック』市川沙央 (2023)文藝春秋
『ハンチバッグ』は、病気にせよ、障害にせよ、それぞれの当事者やそこに関わる人たちが、心のひだを震わせながら読んだのではないだろうか?
息を吸いたいのに入ってこない発作時の窒息の苦しみを、頭ではなく体が知っている人。
痰吸引や誤嚥性肺炎の大変さと、異性介助のどうしようもなさに介護の日常を重ね合わせる人。
「間違った設計図」で生きてきて、世の中全てが崩壊すればいいと願う人。
もう一方で、
そんな人の中にもあるマチズム(健常者優位主義)に気づかされ、世界がひっくり返る。紙の本の特権性のくだりは印象的。
どんな立場からも、そこから見える世界がある。
周縁に生きる当事者から発せられる言葉たちが、
社会の外に広がる空を垣間見せてくれる。
SNS時代に生きる私たちにとって、もはや実物の顔や生身の身体は重要ではなくなりつつある。他者とのコミュニケーションは、加工され、盛られた、記号としての自分=アバターで十分だ。
コロナがそれを加速させた。
ムーンショット計画は着々と進行中。
そんな、人間の営みから身体が失われている時代の中で、
小説の世界では、障害者の主体としての言葉で紡がれた作品が注目された。
心理療法の世界でも、身体志向のアプローチが取り入れられ始めている。
死がある限り、人間は身体をないことにすることはできず、排除しようとすればするほど、その裏返しとして生身の身体が立ち上がる。
身体の不調や不具合が、むしろ生きていることを実感させてくれるように、
体を張った生の言葉が、生きることの本質を再び問い直す。
リストカットのように。