僕がまだ幼いころ、僕の家にだけ母親がいないことが、何故だが解らなかった。
父は仕事でいそがしく、事実上、姉が僕の保護者であった。小学校の入学式も当時中学生だった姉が付き添いだった。

小さい頃は、中学生も大人も見分けがつかなかったので、そのことに特に違和感はなかった。
僕自身が中学生になった時、当時の姉が大人に混じって、どんなに大変な思いをしていたかを知った。

僕は姉のおかげで、母親のいないハンデを感じることはなかったが、姉はどれだけの重圧の中で生きたのだろう。姉のことを想う時、忘れられない出来事がある。


ミエコねえさんは、姉の同級生で親友だ。
中学、高校と同じ学校に通い、同じバスケ部で競い合った仲だ。
ミエコねえさんは細身だが背が高く、身長は170cm以上あった。
姉も身長は高い方だったが、ミエコねえさんと並ぶには、背伸びが必要だった。

僕はミエコねえさんのことをずっと嫌っていたが、ある日を境にねえさんのことが好きになった。
それはミエコねえさんが「お母さんごっこ」をしてくれるからだ。

どうしてミエコねえさんが僕と「お母さんごっこ」をしてくれるのか。
その理由は僕には解らなかったし、知りたいとも考えたことはなかった。

姉はよく友達を家に連れてきて、週末には彼女たちが泊っていくこともしばしばあった。
特にミエコねえさんは常連だ。「お母さんごっこ」をしたあの日以来、ねえさんは僕に勉強を教えてくれるようになった。

ミエコねえさんは頭がよくて、なんでも解りやすく教えてくれる。
僕が問題を理解できると「ゆうくん、賢いね。」などと言って大げさに褒めてくれる。
ねえさんに褒められると、とても嬉しかった。

ある時から、ミエコねえさんは泊りの時、姉の目を盗んでこっそりと僕の部屋に来るようになった。
姉がお風呂の時などに、ねえさんはパジャマ姿で僕の部屋に入ってくる。
たいていは、僕はもうベッドに入って寝ているのだが、ミエコねえさんは突然僕の隣に入ってきて、
大きな腕で「ぎゅっ」としてくれる。

ミエコねえさんは優しくて、「ぎゅっ」としてもらうと、とても心地よかった。

それがいけないこととは、子供ごころにもなんとなく分ってはいた。
姉に見つかったら、びどく叱られるに違いない。

しかし、ミエコねえさんは賢い。
ねえさんが姉に見つかるようなヘマをしでかすとは考え難かったが、姉は勘がよいので油断できない。

はじめのうちは「お母さんごっこ」は姉の目を盗んだ短時間のものだった。
ところが、回を重ねるごとに、ミエコねえさんは大胆になってきた。
皆が寝静まった深夜に、ねえさんは僕の部屋を訪れるようになった。

その夜のミエコねえさんは、いつもと少し違っていた。
「お母さんごっこ」の最中、ねえさんがやたらと「ぎゅうぎゅう」をやってくる。
僕が寝付けないでいると、ミエコねえさんは耳元でささやいてきた。

「ゆうくん、キスしたことある?」

「ううん。」

「じゃあ、私が教えてあげる。」

「だめだよ。お姉ちゃんに怒られる。」

「ゆうくん、私のこと嫌い?お母さんごっこやめにする?」

「・・・だって・・」

「とっても気持ちいいんだよ。ほらこうして口をとがらせて。」

言われるままに僕が口をとがらせると、ミエコねえさんの唇は僕の口に押しつけられた。
僕はねえさんとのキスは嫌だったが、ねえさんのことが好きだったので我慢した。
ただ、姉に知られることが怖かった。

次の日の朝、僕は姉の顔をまともに見ることが出来なかった。

「ゆうくん、おはよう!」
ミエコねえさんは昨夜のことなど、まったく憶えてもいないような態度だ。


外が肌寒く感じ始めた季節のこと、その日はミエコねえさんだけが泊りに来た。
姉と一緒に勉強でもしているのだろうか、いつもの騒がしさはない。

深夜また、ねえさんは僕の部屋に来るのだろうか。
僕はだんだん「お母さんごっこ」が怖くなってきていた。

ミエコねえさんのことを嫌いになった訳ではない。
ただ姉に対する罪悪感がつのっていたのだろう。

やはり、夜になるとミエコねえさんはやってきた。
虫の知らせか、その夜、僕はなんとなく嫌な予感がしていた。
でもねえさんの身体に包まれると、いつものように腕の中で寝てしまった。

次の早朝、暗いうち、僕は姉の怒声で飛び起きた。

「ミエコっ!何してるのっ!!」

姉は見たことのないほど怖い顔で、ミエコねえさんを睨みつけている。
ベッドの上で、僕は思わず首をすくめた。

どうやらミエコねえさん、昨夜は疲れていたのだろう。
不覚にも僕を抱いたまま寝てしまったようだ。
悪いことに、姉に見つかった時、ねえさんは僕を抱き枕のように抱いたままだった。

さすがのねえさんも、ややばつが悪そうにしている。

「黙ってないで、答えなさいよ!」
姉の怒りがさらに増してきた。

しかし、さすがにミエコねえさんだ。あわてることなく身体を起こしながら、

「あれ、私・・夕べ寝ぼけてゆうくんの部屋に・・・・・」
ねえさんは図太くとぼけてみせたが、怒り心頭の姉に通用するはずもない。

「嘘つかないで。あなたの態度、最近おかしいと思っていたけど。」
やはり姉は恐ろしく勘が鋭い。

「ミエコねえさん、悪くないよ・・・」僕が口をはさむと、

「あんたは黙ってなさい!」姉の怒声で僕は再び首をすくめる。

「判った、じゃあ本当のこと言うわ。」
ついにねえさんも、誤魔化すことは諦めて開き直る。

ミエコねえさんは落ち着いたものだ。おもむろにベッドに座りなおし姿勢を正すと、
「ナオも座って。」、と姉に着席を促した。

姉はしばらく目を怒らせて立っていたが、怒気を納めて冷静になろうとしたのか、椅子に腰かけた。

「私ね、ゆうくんのお母さんになってあげたかったの。」
ミエコねえさんは切り出した。

「・・・」姉はミエコねえさんを睨んだまま、何も言わない。
ねえさんの言葉に、姉の怒りがさらに増幅しているようにも見える。

「ナオ、私に言ったじゃない。ゆうくんも本当はお母さんが欲しいのに、言えないんじゃないかって。」

「・・・」姉はなおも、唇を噛んだまま、おし黙っている。

「ゆうくんには、ナオと同じ思いをさせたくないとも言ったよね。」

ついに堪りかねたのか、姉が言葉の堰を切った。
「・・・だからって・・・、ミエコ、あんたアタマおかしいんじゃないの?」

姉は席を立った。

「ゆうはここに居なさい。」僕に命じると、
ミエコねえさんの手を引っ張って、引きずるように自分の部屋に連れて行った。

姉の部屋では、しばらく、二人の口論と沈黙が繰り返されている様子が伺えた。

僕はただどうなるのか怖かった。キスのことがばれたらどうしよう・・・布団をかぶって震えていた。

小一時間ほどで、姉とミエコねえさんとの確執は、とりあえずの終息を迎えたようだった。
二人とも、どこかムスっとしながらも普通の会話を交わし、僕も交えて3人で朝ご飯を食べた。
僕はいたたまれない気持ちで、小さくなっていた。

朝食後、しばらくするとミエコねえさんは帰って行った。

その日、姉はずっと悲しげな顔をしていた。
僕は、姉を悲しませたんだと思うと、辛くて辛くて、胸が苦しかった。


夜になった。
僕がベッドに入ってしばらくすると、姉が部屋に入ってきた。

「ゆう、今日は一緒に寝よっか。」

姉がベッドに入ってくる。嬉しくなって僕は姉に抱きついた。
柔らかなぬくもりと、心地よい匂いに包まれて、僕は幼い頃に戻ったようだった。

「ゆう・・・」姉は僕に何か聞こうとしたようだが、言葉をとぎらせた。
姉が何を聞こうとしたのか、僕にはよく分っていた。

「僕、お母さんなんていらない。だってお姉ちゃんがいるから。」

姉はもう何も聞かなかった。ただ強く僕を抱きしめてくれた。

その晩、姉はとても優しかった。
僕は二度と、姉を悲しませるようなことはするまいと心に誓った。

だからミエコねえさんにキスされたことは、姉には絶対に言えない。


それからも、ミエコねえさんは、しばしば家に泊りに来た。
姉との信頼関係が修復されたのかは僕には知る由もなかったが、表面上は以前と変わらない。
あの一件以来、かえって姉との仲は親しみを増したようにも見えた。

ミエコねえさんが僕の部屋に来ることは、二度となかった。




追伸 ミエコねえさん。最後にお会いしたのは姉の七回忌でしたから、もう10年以上も前になるのですね。

「ナオのゆうくんへの無償の愛情は、ナオの自己愛の裏返しに過ぎない。
ナオはもういない、亡霊なんかに縛られたらダメ。
だから、君はもう君自身を解放してあげたらいいの。
これは私の言葉じゃない。
私の中のナオが、君に伝えて欲しくて私に言わせた言葉なの。」

あの時、誤解を怖れずに言ってくれたミエコねえさんの言葉、僕はどれだけ救われたことか。
今、僕は沖縄の離島で元気にやっています。

当時よちよち歩きだった息子さんも、今では中学生でしょうか。
ミエコねえさん、いつまでもお幸せに。