先日野球を観戦する機会がありました。その際に、1塁ベースの選手が2塁ベースに向かって盗塁するシーンがあったのですが、塁審はセーフの判断をしました。観客席から見ていてもセーフかアウトかきわどいと感じましたが、塁審の判断だから正しいのだろうと思っていました。

 そうこうしていると、守備側のチームから機械をつかったシステムで塁審のセーフの判断が正しいのかどうかの申し入れが主審にあったようで、観客に対してしばらく待ってください、というアナウンスがはいりました。

 しばらくということでしたが、10分は経過したでしょうか。

 主審から、「セーフではなく、アウト」である旨の説明があり、塁審の判定が覆りました。

 ツーアウトの状態でしたので、攻守の入れ替わりのシーンに場面が進んでいき、何もなかったように時間が過ぎていきました。

 私はこの一連のシーンを野球観戦していて、違和感を抱きました。

 塁審は人であり、判定のプロフェッショナルです。プロが判定したことが、機械に再度判定してもらい判定が正しいかどうかの判断を仰ぐというこの状況は、プロの存在意義は脅かすことではないか?

 機械に判定してもらうということは、人よりも機械の方が上なのか?

 人はヒューマンエラーを起こすという前提に立てば、医療の世界でもセカンドオピニオンというシステムがあるし、製造現場(工場)では人が組み立てた物や加工した物を検査員や画像検査で品質チェックをするシステムがある。プロも人なのでヒューマンエラーを起こすことはあり得る。そこに違和感はない。しかしながら、人と機械のそれぞれの得意分野で共生を図るならば、主審や塁審を機械が担い、機械もこわれたり、動作不良を起こすことがあり得るので、それを人の力で急場を凌ぐ、ということの方が人の存在意義や威厳という側面から見た際には、心が落ち着くのだが、それは私だけ抱くことなのか・・・。

 長々と私が抱いた違和感を記載しましたが、何もないように通りすぎた中で、私が抱いた感情を何人の観客(おそらく、1万人弱いた)が抱いたのでしょうか?

 仕事柄、生成AIの進歩が著しく、様々なビジネスシーンでソフトを含む機械が活躍している中、人は組織体の中でどのような役割を担わないといけないのか、という立ち位置の変化が現在進行形で起こっている状況に日々直面している関係上、前述した感情を抱いた次第です。

 社会システムが大きく変化していく中で、人の立ち位置、存在意義を、読み手の皆さんも引き続き考えていただき、人である私もあなたも、人らしく、幸せな人生(仕事だけでなく、プライベートも)を送るきっかけの記事にしていただけたら幸いです。