もっとも、食堂とは名ばかりの状態だった。2階の板張りの床部分はすきまだらけで、1階の電灯のあかりがもれていた。ガス器具なども簡単なもので、調理時間はこんにちのそれに比べると2倍も3倍もかかった。平松の日課は、毎朝5時から朝食の準備を開始、午後8時を回る頃、夕食の片付けを終るというのが常だったという。


鬼頭工業株式会社|KITO MAC|
食堂を設けるとなると、調理師が必要。急拠、社長夫人の友人で、高畑(昭和町)時代に仕事を手伝ってもらっていた平松銉子に白羽の矢をたてた。彼女は、この申し出を快諾、さっそく資格を取得、その年の12月からまかないを始めた。


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食堂、寮などの施設の充実

昭和34年度(1959年)から当社も、北九州の産炭地などから新制中学卒業生の集団就職を受けいれることにした。新天地への移転計画に入っていなかった寮施設と食堂施設の設置がただちに問題となり、考えぬいたあげく、木造倉庫の二階部分を大改造、設計室と同居することになった。


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計り知れない苦難を、社長夫妻と副社長の和で乗り切り、家族的な雰囲気のなかで従業員の方々も心意気に感じていたのではないでしょうか。
桜花あり
 喜悲こもごもの
   三十年
(鬼頭工業株式会社食堂責任者 松平銉子)


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