*敬語と直接関連することではありませんが、少し気になる言葉があったので書いてみます。
むずかしい文章を分かりやすく、分かりやすい文章を面白く、とはよく言われることです。最低限「むずかしい文章を分かりやすく」できればよいと思いますが、これがなかなか一筋縄ではいきません。
意識の持ち方としては「小学校●年生に分かるように」「中学生に分かるように」「素人に分かるように」と表現されます。具体的なターゲットを想定すると確かにイメージがわき、分かりやすく書こうという気持ちになります。
最近、書籍で気になった表現で「目線を下げて書くようにしています」というものがありました。
「著者である私は本来難解な言葉もたくさん知っているし、普段書く文章はこれほど簡単ではありません。けれどレベルが低い人のために分かりやすく書いていますよ」。そんな風に読者側は受けとめてしまいかねます。
それというのも、TVなどでよく使われる表現に「上から目線やなあ」というのがあるからです。子どもたちの日常の会話でも耳にします。上から見下ろしている高慢なイメージをユーモラスに言ったものでしょう。
だから「目線を下げる」の一言が「あなたの低いレベルにわざわざ下りて書いているよ」というように聞こえてしまうのです。
話し手にその気はなくても、「目線を下げる」という言葉が、知らぬ間にそういう意識をつくってしまうことがないとはいえないでしょう。
さらに、どういう表現がすっきりするかな、と考えたとき「目線を合わせる」という言葉が浮かびました。このほうが、ちゃんと心で向き合っている感じがします。
「目線を合わせる」と言うとき、私はある知人が私の子どもたちと対面したシーンを今でもくっきりと思い出します。彼は、私の子どもたちの前まで進むと、すっと膝を折り、目線の高さを揃えて優しい笑顔で「はじめまして、●●と言います」とあいさつをしてくれたのです。
私は驚くと同時に、深い感謝と敬意を抱きました。彼の職業は、パソコンの専門家。
> たった3分でPCの達人さん
ああ、普段からきっと相手がどんなパソコンの素人であっても敬意を失することなく指導することができる方なのだろうと想像しました。
「目線を合わせて」とは、まさにそうした心からの態度が実際に表れるような状況であると考えるのです。
子どもでも大人でも、人はそうして誰かに大切に接してもらったときの気持ちを忘れずに持っているものではないでしょうか。明確な記憶ではないにせよ、ふともらった優しさは木の葉のようにひらひらと心の奥に積み重なって、やがてその人をつくる一部になっていくだろうと思うのです。