『ダブル』から考える表現の原水
轟は役者としてのあり方を、愛姫は人間性そのものを、というように、現場で出会った人物たちは、それぞれの方法で多家良を受け入れていき、徐々に彼の「世界」は形を変えていきます。
それまで、多家良の世界には友仁さんしかいませんでした。
仕事や人間関係に疲弊していたあの頃、舞台上で精一杯演技をする友仁さんの姿が、俺を救ってくれた―――
だから、友仁さんや劇団の仲間たちと、ただ「楽しく」芝居ができれば、それだけで良い。
そう思っていたはずなのに、本物の演技の世界に足を踏み入れた途端、思いがけず何かが音を立てて崩れはじめ、やがて友仁から向けられていた感情が「嫉妬」であることに気付く多家良…。
『ダブル』を読んでいると、「表現の原水」に触れたような気がします。
例えば、自身の経験談やトラウマなど、世界と触れることで揺れ動いた感情が様々な作品に昇華されるものだとして、では多家良や友仁の演技の原水になっているものは、一体何でしょうか?
友仁の場合は、「意地でも演技の世界にしがみついてやる」という執着心に近い感情が源になっているのでしょう。
多家良の場合、最初は友仁さんでした。
ところが、「世界」を知ってしまった彼にとって、もう既に友仁は登場人物のひとりでしか無く、演技の原水を湧きたたせてくれるものは誰もいません。
今の所の展開だと、愛姫を代わりにする可能性が大きいような気がしますが、果たしてそこに大人しく収まってくれる女性なのか…。
いずれにしろ、多家良と友仁の今後の変化が楽しみです!
