『ダブル』から考える表現の原水

前回は『ダブル』の概要をザックリまとめてみましたが、どうですかね??

作中はシェイクスピアのほか、恐らく作者が作ったのであろうオリジナルの映画・ドラマのストーリーが登場するので、俳優や表現の世界が好きな人はたのしみながら読めると思いますよ(*^^*)

 

…さて、『ダブル』のメインは多家良と友仁ですが、多家良がスカウトされたことで、ふたりの関係性が変わりはじめます。

それまで多家良にとって友仁は「人生のすべて」で、何故なら、人生のどん底にいた彼を救ってくれたのは他でもない「友仁さん」だから。

劇団に入ってからの多家良は水を得た魚のようにイキイキと演技をするも、彼の才能が理解できるのは友仁のみ。

それでも友仁は「多家良のためならなんでもやってやろう」と、スケジュール管理から炊事洗濯まで、とにかく徹底的に身の回りの世話を焼き、台本が読めない彼の代わりに代読・演技プランの構成まで請け負うものの、それが逆に多家良の自立の妨げになっているとは気づいていない…。

 

いやむしろ、スカウト後のストーリーを読み込むと、意図的に多家良の自立の邪魔をしていたのかも。

その可能性が浮かんだのは、多家良がとある大物映画監督の作品の撮影中、友仁の演技プランに沿って動こうとしていたことを真っ向から否定されたシーンです。

はじめて「友仁さん」の演技プランが通用せず、「宝田多家良」という人間の存在そのものが求められた瞬間でした。