久田和弘、『文豪ストレイドッグス』について考える(終)

 

今回文ストを考察するなかで、どうしても「実在した人物の二次元化が人気を集める理由」が見えてこなかったのが個人的に残念ですが、この作品の核を担うキャラクター設定は、恐らく人気の理由と繋がる部分があるのでは。

例えば、実在の人物と同様に自殺マニアな文スト版太宰治の持つ能力は他者を否定することで本領発揮するものの、彼自身は年下に生きることを諭そうと努めます。しかし、これらの設定上、太宰が矛盾を抱えていることは明らかです。

(中島敦、中原中也のキャラクター設定もどこか矛盾を抱えた部分が見られるので、そちらはぜひ原作にてご確認を!)

考えてみると、二次元化した彼らが抱える矛盾は、そのまま実在の人物の「写し鏡」としての役割を果たしているのかもしれません。太宰の生死への葛藤は、『人間失格』など彼の著作のファンであれば思い当たるところは多々あるでしょうし、中原中也の『汚れつちまつた悲しみに』を読んだことがあれば、エキセントリックななかに垣間見る存在することへの悲哀をキャラクターに見出すでしょう。

矛盾は、二次元の世界でしか表現できない魅力です。だからこそ、実在の人物の二次元化は成功例が多いと言える一方で、『文豪ストレイドッグス』から推測するに、善悪の観念などより複雑でどこか人間臭い設定を追加しなければ、人気は得られないと思います。

「どうせ有名な文豪をパクっただけでしょ」と舐めてかかったら火傷する、それが文豪ストレイドッグスの真髄なのです。