久田和弘、『ヴィンランド・サガ』について語る4

「父親殺し」でトルフィンがヴァイキングになるキッカケをつくり、少年期の殆どをともに過ごした「アシェラッド」は、一兵団を率いる首領であり、稼ぎ頭であり、仲間から「運の流れを読むことに長けている」と信頼されている男でもある。
彼のやることなすことは「作品上最も非情」といっても過言ではないかもしれません…イヤ、もちろん少年期のトルフィンも酷いっちゃひどいものの、アシェラッドほど能動的ではない分あまり残酷にはうつらないのかも。
アシェラッドが指示する「略奪」の対象は、当時を生きていた「普通」の人々です。あばら家に一家で身を寄せ合って暮らし、毎晩神に祈りを捧げてから食事をする…そういう風に暮らす、大人・子供・年寄・幼児を村ごと「根絶やし」にし、そこにあるもの全てを奪い去っていく。

しかも、ヴァイキングにとっては自身の行いに「正義」があると信じ、だからこそ神から下される審判を恐れず村々を襲いつづけられるのでしょう。
「これは狩りだ。俺たちが狩る側でお前たちが狩られる側、それだけのことだ」
↑は後にトルフィンがとある少女に向けて放ったセリフです。「狩り」はこの物語におけるヴァイキングの性質を分かりやすく表現した言葉だなと思いました。

…しかし、一見残酷非道な行いをしたヴァイキングの首領自身も冷酷な人物かといえば、彼にはまた別の「正義」がありました。
当時の、怒りと憎しみに目が曇ったトルフィンには絶対に見えなかった「正義の先」を、アシェラッドはずっと凝視していたのかもしれません。