久田和弘、「尾崎かおり」について語る5
『神様はうそをつく。』を読んで久田的に気になったのが、なつる、理生、理生の弟で過ごす夏休みが「子供だけの閉鎖手な空間」のなかで行われていた点です。
毎日3人で買い物に行き(金銭的に厳しいためスーパーで安売りされている商品を狙う)、理生のつくる料理を食べながら、弟の面倒をみるなつる・・・それは一見本物の姉弟、もしくは仲のいい従兄弟同士を連想させるものの、ここで行われていることすべてが「ごっこ」である事実に気づかされた時、「”夏休み”のなかに閉じ込められた子供ら」という言葉が脳裏をよぎりました。
(そういえば昔、『映画版うる星やつら』で、”永遠つづく夏休み”っていうのやってましたよね。)
けれど、「子供だけの夏休みの国」から一歩出れば、そこには否が応でもたくさんの大人からの理不尽な言葉が待っています。
サッカークラブのコーチの偏見、子供との接し方に戸惑う母親、姿をくらました理生と弟の両親、そして、なつるにサッカーのたのしさを教えてくれた入院中の元コーチ・・・絶対的な存在である大人でさえも、不完全で、脆く、「うそ」によってなんとかその場に踏みとどまっていることを、なつるは理生を通し、そして理生はなつるを通して知っていくのです。
「尾崎かおり」というマンガ家は、成長途中にある子供の純粋な眼差しできびしい現実と真っすぐ向き合う様子を丹念に描く、というのが久田がいだいた印象です。
