おくやまのでたらめマンガ論

おくやまのでたらめマンガ論

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 マンガはデタラメであっていいと思います。女性キャラクターの胸はどこまでも大きくしていけば良いですし、驚いたときには目が飛び出ればいいと思います。現実では起こり得ないことが、マンガの中で起こる。これこそがマンガの醍醐味ではないか、と思うのです。

 今現在の流れとしては、マンガにリアリティを求める風潮にあると思います。ただ、これは前にも言ったように、マンガでなくても良い気がするのです。本物そっくりの人間達は、現実そっくりの世界を動き回る――という方向性を目指す以上は、到底映画に敵いっこありません。

 現実との違和感によって、その漫画の評価を下げるのは、果たして正しいのでしょうか。

 もし正しいのであれば、これからの時代はアナログ原稿など消えていくでしょう。今までの漫画のコマ枠の部分に、写真を貼りつけているような、漫画本来の面白さが消え失せていくような、危機感さえ覚えます。

 絵の感じが現実に近ければ近いほど(もっと言えば写真と見分けがつかないほど)に描ければ、絵が上手いと判断されるのは、絵描きの個性が損なわれていく気がします。だから、絵はもっと自由に、かつでたらめであって良いんではないかと思います。

 人が頑張っている姿は元気付けられます。パワーみたいなものが体全体から放射線状に向けられていて、それに僕たちはきっと当たっているんでしょう。浅田真央も安藤美姫も鈴木明子も、みんなよく頑張ったと思います。彼女らの姿をみていると、「自分たちも何かしなきゃ」という焦りもまた、勇気と同様に生じてくるから不思議ですね。

 ネットの書き込みによる漫画の評価は、その漫画の浮き沈みに少なからず影響しているでしょう。では、一体その漫画の評価の基準は何なのか、という疑問がふと浮かびましたので、考えを一応書いておきます。

 大体において「絵が上手いか下手か」ということは、ひとつの判定材料になっているようです。例えば、五段階評価で批評できるとすると、「絵が汚いのが一番の原因」という理由により、最低評価の「1」を貰っている漫画もあります。某批評サイトのシステムです。

 では、絵の上手さとは何なのか。絵の上手さというものの本質は、僕は無いと思います。時代によって「絵はこうあるべきだ」といった様々な主義主張が生まれました。一つ例を出せば、現実世界に限りなく近い形で、ものを表す写実主義を追い求めた時期もありましたが、それは写真機の発明発展により崩れ去りました。そして現在はパトロンが大衆であり、画家もまた大衆である大衆文化ですので、「上手い絵」と「下手な絵」の判断基準が極めて曖昧になってきたことは否めません。

 ですので、絵の上手い下手は、個人的な評価――乱暴に言えば「好み」に過ぎないということになってきます。ひとりひとりが違った印象を持ち、ひとりひとりが異なった評価を下すのです。しかし、絵の上手い漫画として支持されている漫画もありますし、絵の下手な漫画として酷評されている漫画があるのも事実であります。こういう大多数にまとまった意見が形成されていく背景は、何なのでしょう。

 好みは誰しもが持っていて、その反対の所謂「生理的に受け付けない」嫌いなものも持っています。しかし、それではっきりと漫画の絵が判れるかというと、そうでない判断が下ることが多いです。「微妙」「好きじゃないんだけど、下手でもないかも」など。こういう判断は他人の意見に左右されて、どちらか一方にシフトされることが多いように思います。口コミや、インターネットの批評なんかは、自分自身の評価を決定付ける為の指針になってくることもあるでしょう。「この漫画はかなり好評だから、面白かったはずだ」「または先入観で、読む前から面白いに違いない」などです。

 すなわち、こうした大多数の方向性が、「絵のうまさ」という虚像を作っています。しかしその上に漫画の評価基準が乗っかっていることも事実です。ですから、こうすれば絵が上手く見える、という小手先の技術も年々発展していくわけです。

 「絵」の評価と「漫画」本来の評価は、僕はかなり密接なものだと思います。ですので、絵だけで漫画の価値は決まらないと言う意見――確かにもっともではありますけれども、絵の評価も漫画の評価の重要な部分を占めていることは、確かです。物語の内容だけで、漫画が判断されるのならば、漫画家が一所懸命に絵を描く必要もありません。

 ですから「漫画を客観的に判断する」と事前に断わって「これは絵がうまい」「これは絵がへた」と結論付けるのは、正しくありません。たとえ「デッサンが整っている」だとか、「写実的」といっても所詮は言葉のマジックであり、それはきわめて個人的な見方による判断です。