私自身、今回の妊娠で初めて知り、受けた出生前診断(11.25ブログ)について、新聞等でもよく見かけるようになりました。
全国でも90弱ほどの施設でしか検査を受けられないこと、診断対象の妊婦さんも限定的だと思うと、選択肢は未だ、公平とは言えません。
【命の選別】というくだりが必ず出てくる話題。
どうも、どうしてもひっかかる、「命の選別」ということば。
この世の中に、もともと、そもそも、昔から、今なお、いろいろな場面で、「命の選別」が溢れ過ぎているでしょう?と思っています。
医者でなく、医療関係の現場に通じているわけでもないので、感覚的な、個人的な感情だとは思っていますが。あまり声を大にして言ってはならないのかな、と遠慮してしまう話題でもあり居心地が悪い。
夫にはよく話題をもちかけます、貴方はどう思う?と。子どもたちとも話します、この命がいかに奇跡的なことの連続であるかと。
例えば、不妊治療はどうでしょう。
昔の医療技術だったら産まれない命が産まれる時代です。そのことの選択肢が与えられている時代というか。もちろん、選択肢があっても、選べない、あきらめざるを得ないこともある現実あり(例えば、経済的な事情から)。
経済事情で言えば、
「40代の妊娠出産も増えていますが、家庭(個人)の諸事情で中絶を選ぶお母さんも多いのも事実です、どうされるか、ご意思を尊重しますからね。」と妊婦健診初回で先生から説明を受けました。
また、延命治療も、最先端の医療技術等による各種手術も、本人の意思ばかりでなく、それ以上に周囲の感情も交錯して選択されたり、します。
そういう選択ができる環境にいる、情報収集能力がある、自分らしく賢く選択できる、相談できる人・場所・機関がある等々、その有無によっても、命は色々な方向へと向かうと思います。どんな結果になるか、どれが「正解」かは、難しい。
逆に、産まれてきた「どんな命も」大切にされているか、家庭のなかで、学校のなかで、社会のなかで、対等に扱われているの??と考えると、とんでもなく不公平な、未熟な社会と思えます。
親戚周囲でも、ご長寿・ご病気をへて、天に召される話しも増えている最近です。
産まれる命、召される命、いまある命への考えが続きます。
