自分の親だからというわけでなく、素晴らしい最期を迎えた母について、もう一言。
102才まで、会う人々に「影響」を与えつつ
最期のさいごまで、意識をちゃんと持ち
「ありがとう」を、みんなに言いながら
「さて、わたしの出番は、そろそろ終わりだね」とでも言うように(実際には言わないが)
痛みも苦しみもなく(聞くと、苦しくないと言っていた)
「みんな仲良くね」と言い残し、
旅立って行った母は、理想的な最期だったように思う。
理想を持つのは、もちろん本人ではなく
残された者が感じたことだ。
たったの一週間ほど、おシモの世話にもなったが、
「自分で」トイレへ行く!という強い意志は
102才、貫いた人生だった。
頭がしっかりしている分、ただ毎日を来るべき死のために生きていくことに
絶望や、哀しみがなかったとは思えないが、
決して、泣き言やグチを言わなかった。
ひとの悪口も言わなかった。
「それ」を聞いた人が嫌な思いをするようなことは
一切言わなかった。
亡くなる2日前には、それまで観ていなかったテレビを
ベッド脇に入れてもらって、「国会中継」を観ていた。
正確には、観ていたかどうかはわからないが。
母は常々、「私は雨に濡れたことがない」と言っていた。
ザーザー降りでも、出かけようとすると不思議に降り止むと言っていた。
亡くなる日は、前後の日が雨だったが
その日は降らなかった。
身内だけで、、それでもかなり大勢になったが、
家族以外の方には、知らせず、
シンプルだけど暖かい葬儀を終えた。
そして、その日も、
梅雨入りしたのに、一日だけ「晴天」だった。
お別れの時には、みんなが泣いた。
みんなが「別れを惜しんで」泣いた。
うちの息子達も、孫達も、
妹の子供達も、亡き姉の息子も、
みんなが涙を拭って「バーバ、ありがとう!」と言った。
102才まで生きて、、みんなが、母のことを大切な人だったと思っている。
そんな年寄りは他にあまり知らない。
みんなが施設にも、たびたび面会に行っていたし
ベッドに寝付いてからも、毎日のようにみんな見舞いに行った。
私は、決して自分が102才まで生きたいとは思わないが
歳をとっても、しっかりとこの世に自分らしく生活し、
身内の誰もが、忘れていない存在で、
亡くなれば、別れを惜しんで涙を流す、、
そんな母の最期は、
生きている間の「生き様」を、みんなが尊敬の気持ちでみていたからだ、、と思い
羨ましい気持ちもする。
自分が生まれ育った実家の順番から言えば
次は「私」になるわけで、
顔や姿も、だんだん母に似てくるような気もしている自分が
次のセレモニーの主役?と思えば
こんな生き方で良かったのか、、と、
反省や後悔も混ざる。
しかし、そう言ったって、もう遅い。
亡くなる少し前に、書いてくれた母の手紙に
「いまに良いことがあるからね」と、書いてあった。
私は、気ばかり強くて、ダメダメの人間であり
母は、そんなところも見抜いていたはずだが、
その手紙をもらう前に、
「あんたも頑張ったね!」と言ってくれたことがある。
「今に良いことがあるから、引き続き頑張りなさいね」と
言ってくれたのではないかと、今は思っている。
母の絵![]()
もっと良い紫陽花はたくさんあったはずだが、
もらってきた中の、額アジサイなどは
何故か落款がなかったりして、
これ、少し端を折ったりしたので、あまりバランスも絵もよくないが、、
まだホウズキには早いが、
ちょっと、こんなのも飾りたくなったので、
桜の絵をしまって、これ
を飾った。
棺に入れる、、と、うちの娘の子供達が作って
みんなに回して、寄せ書きの色紙ができた。
焼いてしまうのもったいない!と言って
私が、うちに持ってきた。![]()



