コロナ休止の3年半くらいの期間が


やはり私の「やる気」に響いている。


ずっと、前のままライブで歌い続けていれば


多分いまでも、やる気はあったと思うが、


やっぱりしばらく休んでしまうと、


「歳も歳だし、、」と思って、次の計画を立てる気にならなくて、、。


ニ〜三、「ここで歌えば?」という話もないではないが


曖昧なままになってしまう。


そんな中、日曜日は


「4曲だけ歌ってくれない?」と、ギターを弾いて歌う「友」の誘いで


やっと重い腰(ホントに重い、、体重が)を上げて


歌ってきた。


高校の同級生の彼は、ビートルズが大好きで、


あのビートルズ来日の時に、学校をサボって(折から、試験中だった)


ビートルズの追っかけを(日本にいる間、毎日)実行して


学校は「退学」になった人だ。


当時は、、今から60年近くも昔、、


「ビートルズやエレキギターに夢中になると不良になる」


「ビートルズは聴きに行かないように!」と、


大人達に言われ、学校の先生なんか


試験も受けずにビートルズの追っかけをしたと聞くだけで、


ソッコー「単位は上げられない」「落第、もしくは転校!」と、


断罪を下したのだった。


同じクラスの者達は、「えーっ?他、退学?」と、


一大事の騒ぎだったが、


彼は平然と(見えた)、退学をしていった。


その後、他の高校へ行き、大学へ行き、


大手ファッションメーカーに就職をした。


「音楽」の話では、常に連絡を取り合い、


お互いに「頑張ってるね!」と言い合ってきた。


そしてビートルズに関しては、「あの一度だけの来日」に随行(もう追っかけレベルじゃないよ!笑)できて


学校退学なんか、一つも後悔していない!と言う。


その時「誰が運転してくれたの?」と、訊く私に


「運転?あー、オヤジだよ!」と笑う。


父上は、とっくに亡くなっているが、


話のわかる方だったらしい。


その後、自分のブティックを開き、


しばらく前に店もたたみ、ビートルズ追っかけ当時から


辞めずに活動していたバンドや、自分の演奏を吹き込んで(ギター、ピアノ、ドラム、シンセサイザーなど)


普通にカラオケ屋で流れる音質の、立派なミックス音源を作り、


ライブ本番では、生ギター(エレキ)や歌やコーラスを演じる。


勿論、バックはその手作り音源が流れる。


ずいぶん前からその方法でやっていたが、


何でも「B’s」が、そのやり方らしい。


そして、かの韓国BTSも「生」で歌っているものの

(時には生バンドが入ることもあるが)


バックに流れるのは、事前に用意された「作られた伴奏」だ。


私は、長いこと


有難いことに、生の伴奏に支えられて歌ってきたので、


歌う時点で、伴奏者との阿吽(アウン)の呼吸みたいなのが生まれ、


私の好きなように、間(ま)をとりながら、


ちょっとズラしたり、感情を入れながら


まあ、ワガママに歌うことが出来るのだが、


きちんと拍を刻んで、予め用意されている伴奏に、


こちらもきちんと刻んで歌うことは


とても難しい。


私のライブは、お喋りも喜んでもらえるのだが


、、って、婆さんの井戸端会議(死語!笑)のような


台本ナシの「呟き」、、


あー、なんか料亭女将の「呟き」があったなあ!


あんなにひどくないよ!えっ?同じ?


ま、いいか!笑


そして歌は、好きに感情入れちゃうから、


お客様から鼻をすする(風邪ひいてるのかもしれないが、、あはは)音が聞こえたりする。


だけど、彼の手作りカラオケは


音程、テンポ、音に合わせる、、ということに集中して


どうも「いつものように」は、いかない。


そして、住まいは遠いので(今は那須に住む)


「合わせ」が出来ず、楽曲のタイトルだけ聞いておいて、(向こうからのリクエスト)


勝手にイメージして練習しただけだった、、と言い訳は続き、、笑


あまりうまくいったとは言えない出来だった。


もっとも、その日のたくさんのお客様は


自分達も「のど自慢」をするべく集まった方達なので、(歌い手ではないが)


まあ、私の歌なんか聴いちゃあいなかった、、多分。


それでも、ビートルズの彼の達者な演奏で、


ノリノリのダンスタイム、だいぶお歳を召した方もいらしたが


いつものように(彼のライブはいつもみんなノリノリで踊る)


大盛り上がりの会場だった。お客様は50人くらい。








私が歌ったのは


ピンク音符シルエットロマンス


ピンク音符飛んでイスタンブール


ピンク音符冷たい雨


ピンク音符勝手にしやがれ


場所は「湘南台」、、遠かったけど、


まあ楽しかったから、おっけー牧場(あはは)!