春が来れば100歳、横浜の母がなんと「コロナ」にかかった。


昼間はデイサービス、さほど沢山の入所者がいたわけではなかったが、


夜になれば、母と、あと、数人の利用者がそのまま、

個室に入って、夜を越す。


母の住まいから程近くで、まだ新しい施設なので、

家族にとってもやり易く、決して安くはないが、

父の遺族年金と、少しばかり遺してくれたお金で入所していた。


100歳になろうかという母の偉いのは、

泣き言や愚痴を言わないこと、


どんなに新しい出会いの人であっても、

いつのまにか、親切にしてあげて、慕ってもらえるようになる。


老人特有のボケは、ほとんどないし、

誰とでも「話が合わない」ということはないし、


それまでデイサービスは何軒かお試しのようなこともしたが、


どこでも仲良くしてもらい、特にスタッフさん達に気に入ってもらえた。


もっとも、入所者のほとんどが、男女問わず「痴呆症」の症状で、

まともなお話をする人は、数えるほどしかいないらしいなか、


どうかすると、私達より明確な記憶力と、豊富な表現力で、話をすればとても面白い。


母のように「ちゃんとした」会話ができる100歳は、

そう多くはいないだろう。


若いイケメンが好きで、家にいた時はよく韓流ドラマの「若いイケメン俳優」を「推し」ていたので、


スタッフさん達に、若いイケメンが何人かいると、

「仕事とはいえ、おシモの始末や、お風呂のお世話をさせて悪い悪い」と言って恐縮する。


大のお気に入りが、、、ワタシ達姉妹は「ルー大柴」に似てる!と感じ、次からは「ルー」という陰のニックネームをつけてしまった「支店所長」だったが、


5月に辞めてしまい、それに伴って、ゾロッと、

介護士さん達が辞め、


母のいた支店のほうは、立ち行かなくなった。


昼はなんとか、外部から通いのデイサービス(を受ける)の年寄り達が来たが、


夜の対応が難しくなったとのことで、


車で更に20〜30分離れたところへ、夜になって「寝る」ために毎日移動がはじまった。


なんでも前向きに捉える人で、頭も耳もしっかりしているので、


最初は「色々な道を通ってくれるし、桜の時期はどこも咲き競っていて、

 

遠回りしてまで、ワタシに桜をわざわざ見せてくれるのよ」と、


楽しんではいたが、お気に入りの「ルー大柴」はいなくなり、


毎日毎日、夕方になれば「寝るため」に、


場所を移動して、


朝になれば、また車で、元の場所へ戻る、、。


なんでも前向きに捉える母だが、


だんだん「めんどうくさそうな」スタッフの何人かの態度にも、不満が出て来ていたようだ(言わないで我慢していたらしいが)


ケアマネさんには、少し、


「契約と違うこと」


「うちの母は、元気だからなんとかやっているが」


「もうすぐ100歳、1日のうち、車であちこちへ移動するのはキツイはず」


「日本人はなるべく騒ぎを起こさないし、私達の気持ちとしても、穏便にやりたいが、


アメリカみたいな契約の国だったら、訴えられるような問題だ」



というようなことを「やんわりと」言っていた矢先だった。


自由が丘の呉服屋で仕事をする(我が)妹のところへ


施設から(もはやルーのいなくなった施設から)


「お母さんはコロナにかかりました。他の入所者もいますので、


すぐ自宅に引き取ってください」と連絡が入り、


妹も、「どうしよう!」となった。


自宅で、、ということなら、いくら老々介護とはいえ、


ワタシも駆けつけて妹と、コロナの母をみなければならない。


もどかしいラインや電話での、差し迫ったピンチに


「もう、アタシも共倒れの覚悟で、母のところへ駆けつけるしかないか!」と思った。


一瞬、母を挟んで、70過ぎのワタシと妹が


「コロナで死ぬ」姿が頭をよぎった。


夜更けまで、ケアマネさんと妹の必死の打開策検討の末、


酸素濃度が90を切ったという切羽詰まった事態もあり、


非積極的な施設の対応ながら、救急車を呼んでもらい、


なんとか(それも決まるまで大変だったようだが)病院が決まり


入院をさせてくれた。


この顛末を聞くと、「年寄りはどうせ死ぬし」という暗黙の「お約束」が、


関わる人々の心に漂っているのを感じる。


ワタシ達も、じきに100歳になる年寄りを「助けて」、


それに伴う「犠牲」を考えると、


やはり順番に(歳の順に)去るものを引き止めるのはどうなの?と思わなくもないが、


だからと言って、入院も治療もせずに、三途の川は渡らせられない。


まして、ボケもせず、誰にも迷惑をかけず、イケメンスタッフにトキメキながら、


困った人がいれば、優しい言葉をかけたり、みんなを笑顔にさせることが上手な年寄りを


自分の母というだけでなく、他でもない「コロナ」で亡くすのは


いくらなんでも、口惜しい。


無事に入院させて、家に帰り着いた妹からは


「なんとか入院させたから、今は来なくていいよ」と連絡をもらい、


なんと妹がその日落ち着いたのは夜中の3時だったそうだ。


それからは、本来「5日」の隔離期間だが、


その病院は「隔離期間を10日にしています」と、慎重な治療と経過観察の末


一昨日の日曜日は、普通病棟に移動しましたと連絡があり、面会も日中の15分くらいだけ許されたので、


妹達と面会に行って来た。


コロナと肺炎は、もう殆ど治ったが


ベッドに寝たきりだったので、この後、しばらく日常生活を送るためのリハビリをしてくれるらしい。


年寄りは、1日で、ボケるのを


以前世話をした夫の叔母の姿で知っていた。


前の日はちゃんとワタシをわかっていたのに、


次の日、顔を合わせた途端「あんた誰?」となった。


だから、100歳の母も、


もう「こちら側」には戻ってこないだろうと、


覚悟していた。


しかし、不死鳥は、


またもや、甦りそうだ。


普通の病気と違い、やはりダメージはきつそうで、


普段おしゃれな母なのに、グターッとして


姥捨山のように見える、


年寄りばかりの部屋のベッドで寝ていた。


「死んだら真っ先に入れ歯だけは入れてね!」と、


常々言っている「入れ歯」は外されていたし、


マスクをつけっぱなしで寝かされていたので、


最初「モゴモゴ」言っていて、


あー、(ボケ)きたかー!と思ってしまったが、


よく聞くと、


「暑くて大変だったでしょ!」


「おかゆがまずくて食べられないのよ」と


いつもの母と同じことを言っていた。


「1週間くらいで退院できると思った!」と、


あくまでも、前を向いて進む母である。


もう少し病院にいて、


今までの施設は「荷物を持って行って部屋を開け渡して欲しい」と


ルー大柴いなくなった今では、冷たい。


妹は、とうとうコロナの感染元も聞かされないまま(うちのほうは誰も罹っていませんと言われたみたい)


他の施設を探すことにした。


毎日、あちこち移動させられて、


狭い車にデイサービス利用者や、毎日変わるスタッフなど同乗しては


誰からうつるかわからない。


一人ではどこにも行かない(行けない)100歳の母が感染元でないことだけは確かだ。


15分くらいの面会ではあったが、


「お母さんは今まで、どんなことでも乗り越えてきたじゃない!


ここへ来て、コロナでどうかなるなんて


お母さんも、みんなも悔しいから


なんとかこれを乗り越えて、また元の生活ができるように、


「気持ちが負けないように」「必ず良いようになるからね」


頑張ろうね!と言って来た。


微かに頷いていたが、目の力は強かった。


ワタシも母に言いながら、自分にも言い聞かせていた。


暑い暑い「見舞い日」だったが、


帰り道、妹達と3人で自由が丘で食事をした。


まずは、ホッとした3人だった。


「アタシなんか、遺影になる写真をスマホのなかから探しちゃったよ!」と、私。


「ほら、これ!」私。


「あら、これいいじゃない?これにしよう!」。


自分のも決めておかなくちゃね!笑