寒いガーン

1月後半と2月に入ってから、「このまま春?」と思うほど

暖かかったので、余計に寒く感じるが

これが普通の2月だろう。

先日、横浜の実家へ3泊した話は前回のブログに書いたが

埼玉の自宅へ帰って、2日めの早朝、枕元のスマホが鳴った。

夜更かしの私は、その時間帯、

夜だか、朝だか、、笑。

今少し前に寝付いたと思ったら、、という感じ。

慌てて出ると「母」だった。

なんでも、妹は日帰り出張で(呉服屋勤務なので、富岡製糸場へお客様を連れての見学会だったらしい)

朝早く(4時半頃)出て行ったらしく、

そのあと、デイサービスに行くための支度をしていると

「手」をどこかについて、グキッと(母の言葉通り)音がして

痛くて何もできなくなった、、と言う。

ご飯も食べられないし、服も着替えられない、、と

力なく言う。

「えーっ?!わかった、じゃあ暖かくして待っていて!すぐ行くから!」と

夢だか現実だかわからない状態の私も

流石に寝てはいられない!と思い、

すぐに支度して家を出た。

、、といっても、なんだかんだ時間はかかるし

電車で一時間半くらいはかかる、それに向こうは駅から更にバスに乗る。

家を出てから、2時間以上はかかるので

ちょっとした旅行だ。

新幹線なら、京都あたりに行ける時間だが、

3時間後くらいに到着して、母の部屋へ行くと

静かにベッドに寝ていた。

結果として、「痛い」というのは、

腕の付け根で、見ても「腫れ」も「赤く」もなっていなかった。

確かに痛いのだろうが、肩の脱臼でも無さそうだし、

手をついて、骨折したわけでもなさそうだった。

腕白坊主3人と、お転婆むすめ1人の子育てをするなかで、

高い鉄棒の上から飛び降りて、腕を骨折した三男坊(当時小一)

逆立ちをして、足の指をどこかにひっかけて

血だらけになった次男坊(当時中学生)もいたり、

塀によじ登り、墜ちて頭骸骨にヒビが入った長女(当時3歳)

それでも子供の数にしたら、こういうケガは少なかったようにも思うが

おかげで、「見れば」重症か

このまま「そっと」しておけば治るか、

わかるようになった。

母は後者で、多分湿布を貼れば大丈夫だと思った。

自分で、力も入らないのに

やっとのことで湿布を貼ったらしく

うまく貼れていずに、グチャグチャになっていた。

可哀想で、胸が詰まったが

とりあえず、ご飯は、妹が用意してくれたパンとスープを食べられたようだった。

昔から、なんでもオーバーに言う人だし

きっと、私も帰ってしまって

妹は、普段の仕事くらいに帰ってきたので

言わなければ、「出張」とは知らず

普段通りに、デイサービスに行けたかもしれないのだが

『寂しかった』のだろう、、と思った。

夕方まで、母のそばにいて

「もう私はダメだわー。こんなじゃ、施設に入った方がいい!」と悲観する母を

励まし続け、やっと元気になってきて楽しそうに私と話しているときに妹が帰宅。

(私が)3泊もしてやっと帰ったのにすぐに呼び出す母に

少し厳しい言い方で、

「〇〇ちゃんだって、大変なのよ!

遠いんだから、簡単に呼び出したらダメよ!

そんな時は、かえってデイサービスに行かなきゃ!

健康な人が行くところじゃないのよ!

行けばいいようにしてくれるから!」と

勿論私を気遣って言ってくれていた。

結局、一泊して、妹が「明日は帰って大丈夫よ!」と言うので、次の日に帰ってきた。

「シュン」となった母は可哀想だったが、

妹はスポーツ(水泳)インストラクターなどもやってきた人なので、

毎日母と一緒にいる日々に、ここをこうすれば弱った筋肉も復活する、、とか

これだけの栄養を摂ればいい、、とか、

歩く時は、足を引き摺らないで、

足の指を開いて床を踏み締める、、とか

ちょっとしたリハビリコーチとして

いつも優しいだけでなく、弱気の時には

ハッパをかけて、頑張らせる。

歳をとることは、時に残酷に思えることもあるが、

しかし、誰でも「行く道」だ。

あんな、95や6まで生きるかは別として

「死」に近づく(誰でも)日々を

なんとか「楽しく」やっていきたいものだ。